2017年8月23日 (水)

佐藤優 『学生を戦地へ送るには』

~田辺元「悪魔の京大講義」を読む~

○本書誕生の背景

 西田幾多郎と並び、京都学派の一方の雄であった田辺元が著した『歴史的現實』(一九四〇年刊)という本をとりあげ、講読形式で論じた講座合宿の記録。
 観念論的用語に染められがちな田辺の論を、合宿の臨場感を伝えながら、できるだけ親しみやすい解説を試みている。
 本書名『学生を戦地へ送るには』にある通り、田辺の京大生へ向けた講義をまとめた『歴史的現實』は、戦時中、大東亜戦争に歴史的・哲学的根拠を与え、京大生たちを戦地に赴かせる、あるいはその背中を積極的に押すものだった。

P8230593 その全文を読みながら、著者佐藤さんは今日の第一級知識人らしく、キリスト教神学から日本思想史まで幅広い知識を駆使しながら、田辺元が語る際の心理の裏側まで読み解きつつ、『歴史的現實』における論理の「飛躍」を明かす。田辺哲学の核である「種」についても、丁寧に解説している。教えられるところも多い。

 では、なぜ今、田辺の『歴史的現實』をとりあげるのか。
 著者佐藤さんの意図は明確だ。「危険思想に対する予防接種」。
 今日の世界情勢は、トランプ大統領の出現、中東・朝鮮半島の緊迫、そしてISの拡散と、深刻の度を増している。国家対国家ではなく、国家対テロ組織の戦争が広がりつつある今日、従来とは異なる戦争の危険性も広がる。
 こうした情勢下で、「生きることは死ぬことだ」「悠久の大義に殉じた者は永遠に生きる」といった田辺の哲学の実体を暴くことで、少しでもその予防接種をしておきたい――それが著者の狙いだ。

○若者を戦場に送り、自らは逃避する学者・政治家・軍幹部

 ところで、田辺元の名は(「和風原論」でも紹介したように)会田雄次の『アーロン収容所』にも登場する。会田がビルマ(現ミャンマー)でイギリス軍に捕虜として囚われていたときの話で、京大卒の彼は、収容所にいた高校の先輩で哲学を専攻していた人物が収容所内で書いた小説を紹介している。その小説の内容は、「田辺元先生らしい憂国の哲学者を中心とする集団が、日本を経済的道徳的に破滅させようとする国際的陰謀と闘って日本を復興させる話」で、会田は過酷な生活を強いられていた収容所内で面白く読んだ、と書いている。
 だが、京大生や若者たちを戦地に赴かせる背中を押した田辺は、佐藤さんが『学生を戦地へ送るには』の中で指摘しているように、敗戦直前に『懺悔道の哲学』を書き、しかも空爆から安全な軽井沢へ退避し、敗戦後を生き延びた。
 学者に限らず、政治家も似たようなもので、軍人幹部ですら激戦の戦地で若者たちに檄を飛ばし、盾にしつつ、同様の露骨な逃避を図っていたことが、『アーロン収容所』で明らかにされている。

 さて、佐藤さんは本書で大変重要な指摘をしている。

   政治も国家も社会の一部にすぎません。

 大事で、しかも当たり前の、生活者が持つテーゼにすぎないけれど、田辺元だけでなく、和辻哲郎や柳田謙十郎ら、京都学派の学者の多くがここで躓き、逆転させ、「学生を戦地へ送る」役割を大なり小なり果たした。
 戦後、左翼の一部の間でも同様の躓きのもと、裏返した同パターンの言説が流布された。
 今日の情勢下で本書刊行の意義は少なくない。

○疑義と課題

 最後に、ひとつだけ疑問を呈すれば、佐藤さんは「禁書『国体の本義』を読み解く」という副題をもつ『日本国家の神髄』を二〇〇九年に著している。
 そこで氏は、一九三七年、文部省が編纂した『国体の本義』について、こう記している。
 「『国体の本義』は、国体明徴運動の結果、生まれかねない非合理的、神憑り的な観念論を阻止するために、欧米思想と科学技術の成果を日本が採り入れることを大前提に、現代国際社会で日本国家と日本人が生き残ることを考えた当時の日本の英知の結集であるというのが私の理解だ」
 私たちはそれぞれ、純粋培養の場ではなく、さまざまな歴史的規定を受けた場に生きるのであり、当時の情勢下での『国体の本義』をこう評価する佐藤さんの見方は、ひとつの見解として受けとめたい。
 ただ、同書での氏の表現「神話を回復すれば、われわれは死を克服できる」は、『学生を戦地へ送るには』の趣旨と反発しあうのではないだろうか。そこに受動と能動、防衛と侵略の相違を踏まえるにしても。
 氏は、「まだ私がきちんとやっていないものに国家論がある」と明言し、それを課題としているようだ。その成果に注目したい。

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2017年7月 2日 (日)

シニアが自らを「社会に開いている」こと

~あるカフェのご主人~

 取材で全国各地を訪ねると、時間に余Karasuyamast裕があれば、必ず街中をぶらりと歩く。ジャズの店を探すことが多い。
 東北本線宇都宮駅のひとつ先、宝積寺駅から伸びる烏山線で終点の烏山駅で降りたときも同じだった。
 もう慣れっこになっているが、一時間に一本のペースで走る烏山線のこの駅前も、人影はほとんどなく、静かなものだ。

 駅前から伸びる道の両側にある商店街で、開いている様子がうかがえる店舗は数軒。
 そのうちの一軒はかなり古い建物だが、ガス灯を思わせる傘に灯りが点っていた。
 「アルバトロス」とある。出窓にはジャズ歌手アン・バートンのジArbatros2ャケットが飾ってある。ジャズを流しているのだろうか。だが、店内から零れてくるのはAMラジオらしき音。
 木製のドアを開けて入るが、人がいない。何度も声をかけてしばらく待ったけれど、動きが見えず諦めた。

 翌日、取材仕事を終えたあと、再び寄ってみた。昨日と同じように灯りが点り、ラジオの音が流れてくる。
 チロル風の帽子を被ったご主人がすぐに笑顔で迎えてくれる。かなり歳を重ねた方だ。Arbatros
 暗い店内には、アンティークや民芸品などがいたるところに陳列されていて、むしろ腰掛けられそうな椅子を探さなければならないほど。
 重いリュックを下ろし、窓際に置かれた、昔の喫茶店ではよく見られた古風なソファに腰を下ろそうとすると、ご主人が座布団を素早く腰の下に敷いてくれる。動きが機敏なのに驚かされる。
 客は私だけ。訪ねたのは午後だったが、今日初めての客なのかもしれない。

 ひと息つき、ポメラを広げて、取材の整理をしていると、たっぷり注がれたコーヒーが運ばれてくる。
 しばらくして、三角形のカマンベールチーズを一個、コーヒーの皿に添えてくれる。コーヒーとカマンベールチーズとの組み合わせは初めてで、一瞬たじろぐが、せっかくなので少しずつ囓りいただく。
 コーヒーが減ると、笑顔のご主人は手にした大きな薬缶からコーヒーを注ぎ足してくれる……。これが「アルバトロス」流なのだろう。こういうお店のスタイルを受け容れがたい人も当然いるだろうが、ご主人と同じように自分も歳を重ねているせいか、頭を下げながら受け容れる。すべてご主人の流儀に従うのが礼儀のように感じるのだ。

Cinema2_5 少ない本数の電車を逃してはいけないので、三、四十分で帰り支度をする。
 レジ前に進んで、驚いた。目の前に、映画『パリのめぐり逢い』の写真が掲載された冊子が立てかけてある。イヴ・モンタンとキャンディス・バーゲンが頬を寄せ合っている。このお店の雰囲気からすると、意表を衝かれるような映画の写真ではあった。 
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 『パリのめぐり逢い』の日本公開は一九六八年。クロード・ルルーシュとフランシス・レイがコンビを組んだ、甘めの作品に違いないが、映像の完成度は高かった。初めて新宿で観たときは、若いアメリカ女のキャンディス・バーゲンの方にばかり目が向いたけれど、後年になると、逆にアニー・ジラルドの姿に味わいを感じるようになる。不思議なものだ。

 チロル風帽子のご主人。店内のさまざまな置物からして、アルピニストであり、ジャズなど音楽も好きな方なのだろう。若い頃は、それを生業にしていたことがあったのかもしれない。

 支払いの千円札を差し出しながら、映画の写真について尋ねてみると、あらかじめ用意していた五百円玉を握った手を素早く伸ばしてきて、質問に答えてくれたのだが、ラジオのボリュームが大きいせいもあり、よくわからなかった。照れくさそうに、「変わり者なので……」という言葉だけ理解できた。
 とにかくお礼を言うと、ご主人はますます優しい顔になる。シニアの男二人は、交わし合う言葉が通じない、訳のわからない空気を、互いの笑顔で流しあった。
 そして、私は店を出た。

 烏山線の電車に揺られながら、振り返る。
 ご主人は七〇台、いや八〇台かも。でも、動きは軽やかだし、彼なりのサーヴィスを尽くしてくださる。
 おそらく一日に数人の来客、もしかすると客のない日もある、そんな気配を感じる。
 それでも、ガス灯のような傘に灯りを点し、店を開いている。採算がとれているとは思えないけれど、店を開き、接客することが、ご主人の日常であり、生きがいでもあるのだろう。

 自分も同じような世代となり、取材を重ね、周囲を見渡していて、しみじみ思うのだが、会社勤めしていたシニアが定年を迎えると、毎朝通う場所を失い、外部との接触を断たれ、孤立し閉じこもりがちになる。それは決して好ましいことではない。心と身体の強張りの進行を速めるだけだ。東京の地元を昼間歩いていると、表情を強張らせて歩くシニアが目立つ。自戒。

 大切なのは、「社会に開いている」こと。ボランティアでも仕事でもなんでもよいのだが、社会となんらかの接点を持ちつづけること。いかほどでもよいから自らの力やサーヴィスを社会に提供すること(その際、上からの目線に陥らないこと)――そんな風なことをあれやこれや考えた。
 あの店のご主人は、「店を開いている」ことで、自らを「社会に開いている」。ご立派な姿勢だ。

 そういえば、京都仮住まい時代に何度か通った、四条木屋町近くの「クンパルシータ」のママさんもそうだった。巷の噂では鬼籍に入られたそうだが、八〇歳前後までお元気に自らを「社会に開いていた」。

 那須烏山の町は、毎年七月下旬、ユネスコの無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録された「山あげ祭」で大いに賑わうそうだ。町の人たちの心意気が一気に盛りあがる。その時期、「アルバトロス」の様子も一変しているのかもしれない。

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2017年5月 1日 (月)

「おかあさんはわたしを生んだの」 サトウハチロー

Satoaiko_2 たまたま佐藤愛子さんの新書『それでもこの世は悪くなかった』を手にした。
 九〇代になっても矍鑠としていらっしゃる。まあ、たいへんなことだ 。

 その中で、弟で詩人のサトウハチロー(一九〇三~一九七三年)に触れている。
 ハチローさんの姿は、わたしもテレビで何度か見たことがあった。頭髪をもしゃもしゃにして、無精髭を生やし、顔もくしゃくしゃにしながら訳の分からないことをしゃべる――子どものころのことなので、そんな印象しか残されていない。

 そのハチローさんについて、愛子さんはこう書いている。
 兄は「とんでもない不良で、本当にどうしようもない男です」、と。なんとなく納得がゆく。「有名な『おかあさんのうた』で善良な人たちを騙しましてね」とまで言い切る。
 「けれども、彼が作った詩の中で一つだけ、ああ、この詩はいいなあと私が思った詩があるんです。不良少年で父や母を苦しめた男の、こういう短い詩です」。
 それが、「おかあさんはわたしを生んだの」という一編。

  おかあさんはわたしを生んだの
  それから
  わたしをそだてたの
  それから
  わたしをたのしみにしてたの
  それから
  わたしのために泣いたの
  それから
  それからあとはいえないの

 いつどこで発表されたのか、まったく知らなかった。いや、接したことがあったのかもしれないが、若いときには気にも留めなかったのかもしれない。

 何度も何度も読み返してみる。たしかに、ことばを削りに削って生まれた佳作だ。

 わたしのことゆえ硬い表現しかできないけれど、情愛に充ちた世界、母という存在の子への情愛の普遍性をごくシンプルに、ゆえに濃密に描いている。
 とともに、母の手を煩わせ、無用な労苦をかけ、悩ませ、泣かせてきてしまった子どもの屈折した心情も滲ませている。母への感謝であり、詫びであり、自分の至らなさ・情けなさを悔いる心情。

 生まれ、育ち、働き、老いて、死ぬという過程で発出される情愛は、「いのち」という自然性に規定されている。
 母と子の関係は、いのちといのちの関係である。いいかえれば、自然と自然の関係である。そこで、こころの価値が交換される。
 「生きて在る」ことは、自然(すべての存在者)との心的価値の交換を必ず伴う。存在の生成消滅に関わる、この本源的な心情交換を、列島で「あはれ」と呼ぶようになった。本居宣長は、さまざまなものに触れて人の情(こころ)が「感(うご)く」ことを、あはれである、とした。

 近代的主観は傲慢にも、この事実を思考領域から追放してしまった。そうしなければ、近代は近代として成り立たなかったのだろう。
 しかし、近代、それを牽引した西欧近代的主観の限界が露わになる今日、この心情を醸し出す存在観にこそ、改めて光が当てられるべきである。

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2017年3月20日 (月)

村上春樹『騎士団長殺し』

 『騎士団長殺し』の絵は、「第一の敗戦」に関わるメタファーだった。
 焼失してしまったもうひとつの絵『白いスバル・フォレスターの男』は、「第二の敗戦」に関わるメタファーとして甦り、人々の心を動かすことができるのだろうか?

  ~第1部 顕れるイデア編―イデア編~ 
  ~第2部 遷ろうメタファー編~

○政治主義的読解やノーベル賞騒ぎから離れて

 二巻で千頁を超える大作でありながら、(たくさんの)読者を引きこむ力をもつ作家はそうはいない。わたしも、ほぼ一気に読んだ。
 ただ、物語の半ば近くから、既視感と呼べばよいのか、以前からの手法がそこかしこに見え、物語の構造も前のものとの重なりを感じ、昂揚感は減じられていった。

 語り始められた物語は結末を迎えなければならない。こうした結末を迎えるほかなかったのだろうが、そう推察しても、半ば肩すかしをくった感は否めない。

 あらかじめ断っておけば、村上さんは、作家として登場し始めた初期から、ある批判に晒されてきた。社会的事件を取りあげない、掘り下げない、社会問題と正面から向きあわず逃げている、と。当初から噴出していた、こうした政治主義的立場からの批判については、わたしは拙著『村上春樹の歌』(一九九〇年刊)以来一貫してこれを反批判し、村上文学を擁護してきた。『村上春樹と小阪修平の1968年』(二〇〇九年刊)でも同じだ。
 『ノルウェイの森』の前までは、彼は時代の熱狂が醒めたあとのニヒリズム的状況下の喪失感覚と、そこで生きるときに求められる綱渡り的な倫理を、巧みに歌いあげていた。

 また近年では、ノーベル文学賞の話題に結びつけて、受賞とならない理由を、社会的問題から逃げている、あるいは積極的な参加をしていないからだ、といった党派主義的な批判もときに目にする。こうしたものいいは、ノーベル文学賞を絶対とする思考と政治主義の、品のよくない結託にすぎない。

 ノーベル賞(文学賞)も、世界政治や社会情勢の力学に規定されているし、そもそも「西欧近代」的な視座からなされたひとつの賞にすぎない。受賞があれば、諸賞のひとつとして「めでたい」と受けとめればよいことだし、受賞の可否で作家、作品の価値が増減するわけでもまったくない。村上さんが受賞していない芥川賞でもなんでも、同じことだ。

 以上のような、文学とは無縁な論議とは離れて、『騎士団長殺し』についての感想を少し――。

○「恩寵」として受けいれること

Kishidan11 物語の主軸は、三〇代半ばの「私」と、三歳年下の妻との関係に置かれている。
 妻から突然捨てられた、肖像画家を生業とする「私」は、傷心のひとり旅で北方面の各地を放浪する。そのあと、友人の紹介で定めた仮寓居で生活を始めると、不可思議なできことに巻きこまれる。家主だった高名な画家が自ら描きながら秘匿していた作品『騎士団長殺し』を、「私」が見つけ、封印を解いたからだ。昔の村上ワールドなら「やれやれ」とセリフを吐くような、さまざまなことが「私」を襲う。

 しかし、「私」はこう受けとめる、現実は「たが」が外れてしまっているが、せめて「私」自身は「たがを外さない」でいたい、と。「たが」が外れた現実に対して、真っ当でありたい、と。

Kishidan12_2 現か夢か定かでない世界に現れた「騎士団長」に促されるようにして、局面の打開へ動きだし、自ら闇に立ち向かう。もちろん闇は自らの内部に巣くうものかもしれない。
 「私」は、一三歳で死んでしまった妹と重なる「秋川まりえ」(絵画教室の教え子)の救出に向かうが、皮肉にも騎士団長の胸に剣を立てることによってしか、局面を打開できない事態に追いこまれる。騎士団長を殺し、恐怖の闇を突き進む悪戦苦闘を経て、「まりえ」救出が実現する。

 そして物語は、別居中に他の男との間に子を宿した(はずの)妻と、生活を再開することを「私」が決断し、結末を迎える。
 苦難に満ちた格闘を経て、「私」は「信じる力」を手にすることができた。父が誰かは確定しなくとも、その子を「恩寵」として受け容れる境地に立つ。語るに値する決意ではある。
 近くに住む白髪の男・免色は、少女秋川まりえが自分の娘ではないかと、血のつながりの有無に拘泥する。それが物語の進行を牽引し、最後に「私」が妻の子を「恩寵」として受けとめる境地に立つことを促すことにもなっている。

○感動が薄れた理由

 妻ユズが身籠もった子を「恩寵」として受けいれる赦しと和解を軽視するつもりはないのだが、なぜこの作品を深い感動をもって受けとめることができないのだろう。

 まず物語の構造や手法が、これまでの作品と代わり映えしない。たとえば、主人公をさまざまな理不尽とも思える事件が襲い、深い痛手を受け、彷徨し、最後には決断し、「暴力」(「剣」)を振るう。構造は『ねじまき鳥クリニクル』(さらに遡れば『ノルウェイの森』)と同じで、「剣」は、同作の「バット」と重なる。

 また、この結末のためにこれだけのボリュームを要するものなのか。逆に言えば、膨大なボリューム、事件の配置を施したのに、辿り着いた結末はこれなのか、という思いを拭えない。
 妻の心が見えにくいことも、読後の感動を薄めている。ふと出て行ってしまった妻が、惹かれた男との間に子を宿した(と思われる)。しかしその男と結婚せず、夫との共生を望むが、その心理がよくみえない。

○「三・一一」をめぐる追記と「プロローグ」

 さらに、肩すかしを食った感を否めない要因をあれこれ探ってみると、作家は「三・一一」の洗礼を受けているのだろうか、という疑問に辿り着く。

 村上さんはエピローグ的な最終章で、「三・一一」について追記的な記述を残している。
 いや、それは「追記」ではなく、「プロローグ」とつなげれば、(これから出るかもしれない)続編(第三部)に引き継がれ展開される導入部の可能性もある。

 けれども、今回の二編からは「三・一一」の影響をうかがいにくい。もちろん、本稿のはじめに断ったように、「三・一一」の事象を直接的にとりあげることの有無を指摘しているのではまったくない。ただ、作品の根底に、二〇一一年のあのできごとの受けとめが流れているようには感じられない。

 翻って、「三・一一」とはいったい何だったのか。
 わたしたちの営みが、自然(存在)の生成に依存しているというシンプルな事実を、あの地震と津波は露わにした。

Naraha さらに、その存在の生成から目をそらせて成立しているもうひとつの問題が露呈した。わたしたちが日々生活を営む場(それはまぎれもなく生成する自然である)の一部に密閉空間をつくり、科学技術の結晶である原子力発電装置を「絶対に制御できる」ものとして稼働させ、かつその生産によって生じる廃物を仮置きのまま、生活を営む場に放置・増大させてきた。いいかえれば、わたしたちの「いのち」がつながる後世代に、その処理を傲慢にも押しつけつつある。

 これは原子力発電所の問題だけでなく、「科学」、さらにいえばわたしたちが積極的に受けいれ推し進めてきた「近代化」が内包する限界でもあり、「近代的主観(西欧的人間主義)」の論理の行きづまりでもあった。

 吉本隆明さんは、自らの決定的な体験として受けとめた太平洋戦争(第二次世界大戦)の結果を日本列島における「第一の敗戦」としたのに対して、二一世紀に入ってからの日本社会を「第二の敗戦期」と受けとめた。さまざまな社会的事象をとらえ、彼はそう評した。
 その象徴こそ「三・一一」における原子力発電所の事故であると、わたしは拙著『吉本隆明と「二つの敗戦」』で書いた。一九四五年の「第一の敗戦」に次ぐ敗戦であり、「第二の敗戦」を決定づけるものだった。それは、近代科学を成立させる「近代的主観」(「人間」)の限界と驕りの果てにもたらされた。

○『白いスバル・フォレスターの男』の肖像画は再び描かれるのか

Kishidan2_2 物語の結末では、主人公が仮住まいしていた高名な画家の家が焼けてしまったと伝えられている。
 その家に残されていた画家の描いた『騎士団長殺し』と、「私」が描いた『白いスバル・フォレスターの男』の、二つの絵も焼失してしまった。
 前者は、アンシュルスに抵抗するウィーンの暗殺計画事件、さらには南京事件をも内包する絵画で、「第一の敗戦」のメタファーとして存在した。
 一方の後者は、「私」が福島の地で出会った「白いスバル・フォレスターの男」を描いた肖像画だった。おそらく「私」はその焼失した未完の肖像画に再度取り組むことになるのだろう。
 はたしてそれは、「第二の敗戦」に関わるメタファーとして甦り、ひとびとの心を動かすことができるようになるのだろうか。

 『1Q84』の作家は「BOOK3」で身を逸らしてしまったようにみえる。本作の続編がもし書かれるなら、その繰り返しにならないことを期待したい。「一九六八年」の空気を同じように吸い、デビュー当初からその作品を追ってきたものとして、切に願う。
 むろんそれは、この作家だけが負う課題ではなく、わたし(たち)が問われるテーマでもある。

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2016年11月11日 (金)

新木正人 『天使の誘惑』

~フーテン美穂、更級日記の少女、黛ジュン、中森明菜、きゃりーぱみゅぱみゅ……たたずむ姿の軋みが呼び起こす倫理を屈折させた存在論的「少女」論~

〇同世代で屹立した特異な表現者

 青春時代に影響を受けた表現者が、私にもそれなりにいる。雑然としているが、文芸思想分野で挙げてみると――。
 中学時代は亀井勝一郎、岡本太郎、ラッセルあたりだったろうか。
 高校に入ると、スタンダール、ルソー、ニーチェ、カントに飛ぶ。
 大学時代になると、大江健三郎、吉本隆明、滝沢克己、ドストエフスキー、ヘーゲル、マルクスやその周辺だった。ただ、それらとはまったく異質の表現者がいた。しかも、同世代の人物だった。いや、同世代だからこそ、強烈に惹きつけられたのかもしれない。
 「新木正人」(一九四六~二〇一六年)。彼の文のほとんどは、小さな雑誌に掲載されたものゆえ、その存在が広く知られることはなかった。

Pb090012_2 初めて、新木さんの文に接したのは、早稲田通りに面した古書店、文献堂でだった。政治党派を離れたり、距離を置いたものたちが集まり刊行された小さな雑誌「遠くまで行くんだ…」に、彼の文は掲載されていた。ミニコミ誌を扱う一部の書店に置かれるだけのマイナーなもので、私の周囲でも、新木さんの表現について熱く語りあえる友人は、ただ一人しかいなかった。
 ときは、一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけてのころ、「どう生きるのか」という問いが、自分と他者に激しく厳しく投げかけられ、矢のように飛び交う時代だった(そこには「近代」をどうとらえ、超えるのか、という課題も含まれていた)。そのなかで新木さんの表現は、同世代人であるにもかかわらず圧倒的に屹立し、読むものの生きる姿勢(新木さん風にいえば「たたずまい」)の核を深く揺さぶるものだった。

 そして一九七〇年代後半以降になると、彼の文は小雑誌の終焉とともに消えていった。

〇初の単行本にして遺作

 Pb090009_2最近は書店にあまり足を運ばなくなってしまった。興味が新刊より古書に移ってしまい、古書店やネットで探すことになる。
 この夏にジュンク堂池袋店へ出かけたのも久しぶりのことだった。四階の棚に面差ししてあった新刊に驚く。カバーには「新木正人」「天使の誘惑」が印字されている。うれしい邂逅だった。
 本書『天使の誘惑』に収められているのは、一九六〇年代末から七〇年代前半に数回刊行された「遠くまで行くんだ…」と、その後継誌「遠い意志」に発表されたものに、「早稲田文学」に発表された一編。そして近年から死の直前までの文が追加されていた。書名は、初期の一編から採ったものだ。

 この本の刊行二ヵ月ほど前の春に、著者が亡くなっていたことを、本書内で初めて知った。準備されていた本書の刊行を待つこPb090016となく、死を迎えたようだ。編者の付記によれば、出棺のとき校正紙が収められた。したがって、新木さんにとって初めての単行本で、かつ遺作ということになる。

 今回、単行本のなかで彼の作品に改めて接し、五〇年近く前に出会った新木さんの表現が私の心身の深いところに染みこんでいたことを再確認しないわけにはいかなかった。

〇新木正人の文体と息遣い

 いったい新木さんの文のどんなところに強く惹かれたのか、整合だてて説明するのはなかなか難しい。
 まず文体であり、その息遣いであり、倫理的な構えにあった。Pb090014
 大衆歌謡(今風にいえばJポップス)分野では、黛ジュンから西田佐知子、小川知子、下って中森明菜、そしてきゃりーぱみゅぱみゅまで引かれている。文芸思想分野では、保田與重郎、伊東静雄、西田幾多郎、内村剛介、桶谷秀昭、磯田光一、吉本隆明らと対峙している。それらを素材、題材にした表現の凝縮と、発想の破天荒な飛躍が妖しい魅力を形成していた。私の受けとめでは、情況における存在の哀傷が呼び起こす倫理を屈折させた歌、ということになる。
 全体が倫理を屈折させた歌ゆえに、断片をとらえて引用するのは躊躇われるのだが、それでも著者への非礼を顧みず、まずいくつかのフレーズを引いてみる。

 はじめに、一九六〇年代末から七〇年代にかけての表現。

 【一九六八年 「更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(一)」】
 情況とは、奈落まで降りていかねばならぬように存在している。そして、日本の近代は、基本的には僕たちによって止揚されねばならない。僕は全力で、日本近代の亀裂に迫っていくだろう。輸入マルクス主義などに足もとをすくわれたりしないつもりだ。

 【一九六九年 「更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(二)」】
 「思想を構築する」という表現にはたえず不潔感がついてまわる。
 この不潔感を撃て。
 この不潔感の根を砕け。
 思想を構築することはできない、と僕は考える。
 思想とは、築くものではなくて、突き抜けるものだ。
 思想者とは、大工ではなくて全力疾走者だ。

 【一九六九年「更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(二)」】
 ふと見れば
  大文字の火ははかなげに
   映りてありき君が瞳に
          (吉井勇)
 祇園花見小路を左に折れた坂道、
 八坂の塔を望むこの坂道に一人佇む美穂の姿を僕等は忘れてはならない。

 【一九七〇年 「黛ジュン」】
 桶谷(秀昭――引用者註)の拒否する陥穽とは何か。三十七にもなって今さら覚悟でもあるまいに、とでも言われそうな部分がなぜオルガスムスに紙一重なのか。「インダストリアル・テクノロジイの発展の展望の下に未来をおもう思想と、人間的自然の変革に未来をおもう発想とは、近代にたいする究極の態度決定において容易に和解しがたい。」とする桶谷が紙一重の差でひきずりこまれることを拒否している陥穽とはいったい何なのか。

 【一九七一年 「天使の誘惑 南下不沈戦艦幻の大和」】
 奈良と京都は違うのです。東山と桜井の匂いは違うのです。桜井の黒髪と春の雨は流れないのです。身を切るようには流れないのです。身を切るような流れが暖かさにすらなってしまったOには桜井の白壁がもう辛いのです。祇園白川から花見小路を下って八坂の塔に抜ける道。それは哀しい道です。桜井を意識しつつ桜井をしらないものの道です。若狭の匂いのする道です。北国若狭の女たちと、判断停止の美学にのめりこむこと叶わぬ東国の男たちの道です。

 【一九七五年 「遠い意志(一)」】
 人間存在にとって屹立とは可能かという問とその問に対する姿勢に関することをいま書いている。私は私にかかわる問題の責任を果たさねばならぬ。自身含めたあらゆる存在に対する礼節を守らねばならぬ。

 【一九七七年 「遠い意志(二)」】
私は「筋」に生きたいのである。「個人的な生き様」などという不潔なセリフを決して吐かず、物心ついた時分に得た己れの問題意識にこの上なく忠実に(もちろんその問題意識が続こうが続くまいが)、あらかじめ(コンピューターでなくワラ半紙と鉛筆で)決定された己れの軌跡に正確に沿って針一本ほども踏外さず、偶然性とかいう味気ないものを一切信用しない、そういう生き方がしたいのである。目はかすんで目やにがこびりつき、歯槽膿漏で歯はガタガタ、弱い呼吸器官に坂道であえぎ、百メートル歩くごとにリポビタンスーパー・エスカップキング・マムシグロン飲み、一時間に一度は出血する疣痔の尻抱えていてもリーゼントでバシッと決める、知人と会ったら太陽のような顔で挨拶する、そして知人が去ったら傍の電柱ででも体を支える、くどいようだが私はそういう生き方がしたいのである。
 
 【一九七七年 「遠い意志(二)」】
能面のように笑うことなき少女が、それでも最後に人知れずほほえみたいと希求しつつ、ついにはほほえむことなく仆れたことを想えば、認識とか能力とか個性とかに生きることは断じて許されぬ。私は認識や能力や個性で思考しない。「筋」で思考する。それも時代情況や内なるアッティラ志向(=自身の心に溺れた反欧米志向)の外内の誘惑を退けた真正「筋」で思考する。

 次に、時を経て、一九九〇年代以降の表現。

 【一九九五年 「中森明菜」】
 時間がないので急いで書く。私にとって問題なのは、中森明菜と、いや宇宙の果てを見抜いてしまった少女たちと、己れがどうかかわるか、ということである。私は少女たちに負けたくないのである。少女たちが瞬時に見せる感覚に負けたくないのである。俺は五十だ、俺は五十だ、と大人の迫力と大人のずるさ、あるいは大人の重厚さで勝つ方法などいくらでもあろう。しかし、それでは勝ったことにならない、と自分は思っている。少女が自意識を軋ませたら、私は少女の二倍、己れの自意識を追いつめ軋ませてやろう。少女が魂を荒野にさらけ出したら、私は、私の肉体をさらけ出し、魂そのものになってやろう。間違っても己れの自意識を住みごこちのよい所には置くまい。

 【一九九五年 「中森明菜」】
中森明菜は老いても、時代は第二、第三の明菜をつくる。そして第二、第三の明菜もいずれ老いる。しかし私は老いることを命がけで拒否する。死に水をとってくれる人間が誰もいなくなっても私は馬鹿馬鹿しい筋目を通したい。棺桶に片足をつっこんでも私はユンケルロイヤルを飲み続ける。ドブ板に頭をつっこんで絶命してもユンケルさえかけてくれたら生き返ってみせる。明菜が、そして少女たちが、魂を切り裂いて呻いた、その呻きを私は決して忘れないだろう。

 【二〇〇七年 「自由意志とは潜在意識の奴隷にすぎないのか」】
 四十年。時間性に実体などないのかもしれないが、ずいぶん時が経ったものだ。宮益坂から紀ノ国屋、表参道から赤坂見附を抜けて阿寒湖に到る白い線。あるいは、柿の木坂から緑が丘、そして洗足池。あるいは、角筈からコーヒー「もん」、そしてヴィレッジゲート、ヴィレッジバンガード。雨の夜あなたは帰る島和彦。雲の流れに西田佐知子、渚ゆうこ京都慕情の時だ。三十年前、『遠い意志』二号に掲載した己れの文章から私は一歩も出ていない。出るつもりもない。認識ではなく、ガタがきた体で、三十年前の己れの文章を追い詰めようと思っている。

 【二〇一三年 「ただの浪漫とただの理性がそこにころがっている」】
 私には、「お金」というものがよくわからない。お金が人間の欲望とこうまで結びついてしまう、ということがよくわからない。お金は普遍的価値があるのだろうが、私にとって千円札はその一枚一枚が違う。百円硬貨もそうだ。一つ一つが違う。何が違うのか。一枚一枚一つ一つのたたずまいが違うのである。たたずまいとは何か。それは息吹だ。それぞれの息遣いだ。

 【二〇一五年 「序」】
中空とは「日本浪漫派」のたたずまいだ。軋んでいるから軋まない、あのたたずまいだ。昔もいまも「日本浪漫派」に惹かれている。惹かれているぶんだけおそらくきちんと批判はできる。戦後初期にきちんとした批判をしたのは丸山眞男であった。そしてそれは外在的な批判であった。対象化した批判であった。ほぼ正確な批判ではあったが根こそぎの批判ではなかった。私は違和を感じた。きちんとした、正確な批判ではすむこととすまないことがあるという違和である。「日本浪漫派」を批判するには、浪漫派の内に徹底的に浸りきり、底にもぐり、身体を回転させ、内から根こそぎにしなければダメなんだと思う。そうでなければ形を大きく変えて拡散するだけだ。

 【二〇一六年 「結」 ※病床での口述筆記】
西洋思想の危機感は、限りなく深い。東洋思想の危機感は、危機を危機として感じられぬが故にもっと深い。思想の優位性の問題ではない。私は相対主義者ではないが、優位性とは不足感ある妙な言葉だ。そこにあるのは、今現在の人類の思想としてのみあらわれる。ぼろぼろになった東洋思想が、一見跳ねている西洋思想を、ある根本的な所で支えている。逆ではない。

Yasakatou 乱暴の誹りを受けること承知で引用してみた。若いときに鮮やかに疾駆していたころから、歳を重ね、五〇になり、六〇になり、そして「大きな病気の、末期」のベッド上で口述したものまで。
 文体は三〇年、四〇年以上経ち変化はみえても、姿勢、たたずまい、息遣いはほとんど変わっていない。希有なことだ。
 懐メロで登場する歌手を、今の私は嫌いではない。「昔の名前」で登場する歌手の唄でも、それなりにしみじみと耳を傾ける。時代の匂いを感じられるから。
 ただ、『天使の誘惑』は懐メロとは異なる。歳を重ね、末期を迎えても、二十歳、青春のそれと対峙し拮抗する表現を貫いた。ベッド上での口述筆記とされる「結」には一部乱れも感じられるけれど、晩年の表現も期待を裏切らないものだ。

〇「少女」 新木さんが行き着いた地点

 いったい、新木さんが抱えていたテーマの柱は何だったのか。黛ジュンや中森明菜を登場させ、保田與重郎や岡倉天心、桶谷秀昭、吉本隆明らと対話して、迫りたかった主題は何だったのか。
 日本浪漫派、ではない。
 たしかに、「昔もいまも『日本浪漫派』に惹かれている」と晩年にも書いているが、日本浪漫派の限界を新木さん自身は他の誰よりも知り尽くしている。
 それでも、「『日本浪漫派』を批判するには、浪漫派の内に徹底的に浸りきり、底にもぐり、……」と書くのは、日本浪漫派(保田與重郎)が存在論的な響きを奏でていたからだ。その存在論的な響きを包摂しなければ、「近代」をあれこれ論じても前へ進むことはできない、という思いだったにちがいない。
 ただ、日本浪漫派が奏でた存在論的な響きとは、日本浪漫派だけのものではない。それは保田が帰ろうとした万葉(以前)からずっと日本列島人の心に流れているものだ。日本浪漫派に限らず、列島の人は存在の哀傷を奏でられる。自らの存在の「負い」を自覚してきたからだ。
 そして、響きを奏でることと、思想として存在論に降りることとは同じではない。日本浪漫派は存在論には降りられなかった。

 なぜ新木さんは「少女」にこだわってきたのか。彼女たちの「在る」が、存在論的な響きをもっとも美しく奏でているからこそだろう。
 そして、日本浪漫派が思想的に降りられなかった存在論的受けとめに、新木さんはしだいにテーマを絞りこんでいった。
 フーテン美穂、更級日記の少女、黛ジュン、中森明菜、きゃりーぱみゅぱみゅ、さらに、自ら教壇に立ち接した定時制高校(「夜の学校」)の女生徒たち……。これらの少女たちを存在論的に受けとめること。
 新木さんが少女たちに観たのは、私のことばで言い換えれば、「在る」(「無い」)の「あわれ」だった。「在る」ことへの驚き、そして「在る」の具体的現れとしての立ち姿の軋み。その情況論的在りようを、彼は自らに鋭く問うた、と私には思える。この問いは転じれば、日本列島が「近代」とどう対するか、「近代」をどう超えるのか、ということとつながる。西洋東洋を貫く近代総体と彼は対峙していた。

P3290283 保田與重郎は米作りの生活を求めたが、戦後世代である新木さんは違う。
 「私だって藤本二三代の『祇園小唄』だけ聴いて育ったわけではない。ジョニー・ソマーズ『ワン・ボーイ』、ブライアン・ハイランド『ビキニスタイルのお嬢さん』に夢中になった」。アメリカンポップスの洗礼も受け、そのリズムを体に刻み、リポビタンスーパー、エスカップキング、マムシグロン、ユンケルといった横文字栄養ドリンクも並べた。
 近代に浸るなかで、近代を突き抜けたかった。

〇貫かれた一九六八年の「宣言」

 最晩年に書かれた二つの文(「序」、「ただの浪漫と理性がそこにころがっている」)には、英語の「be動詞」をめぐる感想が述べられている。「在る」(「存在」)について、思いを巡らせている。
 こう書いている、「意に反して年齢だけは大人になり、視野の狭さが取り柄だった私も、それなりにある程度ものが見えるようになってしまった。自分の中では退歩だが、おかげで『在る』に対する強い敬意を感じるようになった」(「序」)と。

 彼の大きなテーマのひとつは、存在論(存在観)に行き着いた。
 一九六八年「遠くまで行くんだ…」創刊号に刻んだ宣言「僕は全力で、日本近代の亀裂に迫っていくだろう」との近代を問う長年の営為(いや、疾駆)が、そう強いた。存在論に降りることなく、近代を問うことはできない。近代が黄昏れた今日、わたしたちにとって突破口と位置づけられるのは、近代を相対化できる列島の存在観を措いてない。
 一九四〇年前後、「近代の超克」が注目されたとき、日本浪漫派(保田與重郎)は存在論に降りられなかった。ただ、響きを奏でてはいた。他方、「絶対無」「世界史の哲学」を謳う京都学派は、降りたようにみえて、西欧近代の論理に足を掬われてしまった。

〇小阪修平の「瞳」の、そして著者の「心」のたたずまい

 新木さんの表現に信頼を置ける一例を引いてみる。同世代の在野の哲学者小阪修平(一九四七~二〇〇七年)さんを偲ぶ文。
 何度か会った小阪さんに、彼は西洋哲学、現代フランス哲学についてしつこく訊ねたという。そのときの小阪さんについての印象だ。

フーコーのこと、デリダのこと、ドゥルーズのこと、素人相手に彼は長い時間、実に詳しく教えてくれた。とんちんかんな質問にも丁寧に答えてくれた。私にとって楽しい時間であった。
 素人相手にありがとう、と言いたかったのではない。初めて会った小阪二十一歳の春と変わらぬ彼の瞳のたたずまいである。他者との間合いに悩んだことがあるのだろう。他者との間合いに照れたことがあるのだろう。他者そのものに途惑う上質な人懐こさ。いま、小阪修平の、繊細で、人懐こく、どこか苦渋を秘めた瞳を、胸の奥で静かに思い浮かべている。

 名文である。
 このフレーズは、拙著『村上春樹と小阪修平の1968年』の最後にも引用させていただいた。小阪氏の「瞳」をこう描写した著者の「心」のたたずまいこそ、いま改めて味わいたい。

 最後に――。
 「黛ジュン」内で初出には引用されていた磯田光一と桶谷秀昭の対談のかなりの部分が、本書では削除されている。
 引用をしたあと「引用が長くなってしまった」と初出では断っていることばも削除されているので、単なるミスではないのだろう。その前に出た「遠くまで行くんだ…」復刻版では、カットされていない。敗戦と戦後のとらえ方にかかわる磯田・桶谷のやりとりで興味深い部分が消えてしまったことには、首を傾げざるをえないし、もし編集段階で削除したのなら、断り書きを置くべきだったろう。
 しかしそうした点がみられても、新木さんの表現を集め、編集し、単行本として刊行する作業に携わった関係者には、感謝の気持を率直に表したい。読者の心をそう促さずにはおかない書である。

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2016年8月28日 (日)

『コンビニ人間』  村田沙耶香

「小さな光の箱」の中で部品となることで、「人間」を取り戻す「私」……。

 コンビニエンスストアが広がり始めたのは、一九七〇年代後半、いや八〇年代ごろだろうか。
 当初は、「コンビニエンス? 『便利』がそれほどいいのか」と毒づいたりしていた記憶がある。ディープであることが敬遠され、軽薄短小が求めらるようになった時代だ。

 それでも今は、コンビニの「便利さ」に助けられることもかなりある。
 とくにありがたいのは、取材や旅で地方に出かけたとき。

 たとえば、数年前、宮崎県の高千穂に出かけたことがあった。熊本からバスに乗り二、三時間。高千穂の町に着いたのは、陽が落ちた頃だった。そDscn8266_2の夜は高千穂神社脇の舞台で神楽を観る予定だった。時間がないので夕食はとらずに会場に向かい、観終わって外に出ると、夜の町に灯りはほとんど見えない。どこかで夕食を、と考えても店がみつからない。
 幸いなことに、夜道を急いで町中を抜けた先にある予約したホテルの一階に、コンビニが開いていた。店から溢れ出てくる明るい光をみたときは、ほっとした。温めてもらったファーストフードと野菜サラダ、ピーナッツ、それにビール、ワインを買い、部屋でくつろぐことができた。
 こういうことが、旅先では何度もあって、コンビニに助けられた。かつて「『便利』がそれほどいいのか」と毒づいていたことを詫びなければならない。

P2030089
(写真は、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市田老地区の被災商店22店舗が入居する「たろちゃんハウス」。コンビニもがんばって営業中。地域の取材で訪ねたときにお世話になった)


 村田沙耶香さんの芥川賞受賞作『コンビニ人間』を読む。村田さんの作品に接するのは初めてのこと。

(※はじめにストーリーをなぞるので、「筋書」を知りたくない方はどうか無視してください)

  ★ ★ ★ ★ ★ 

 三〇代半ばで未婚の「私」は、コンビニでアルバイト店員を長年している。コンビニでしか自分を「人間」として感じられない、まさに「コンビニ人間」だ。
 小さい頃の「私」は、大人社会の常識とのずれがあり、親や周囲、学校との関係に悩む。そこで、自分なりに学習し、自分を異物とみなす周囲とは距離をおき、必要なこと以外はしゃべらず、自分を抑えるようになり、そのまま大人になってしまった。

 大学一年のとき、これからオープンするコンビニの店員募集を知り応募。アルバイトとして働くようになる。マニュアル通りにしっかり仕事をする中で、「私」は初めて、「世界の部品」になることができる。部品になるというのは、社会の役割の一部を担い、社会に認められ、他者とつながり、自分の居場所を確保すること。世間様に認められる「人間」として生きられるようになった。

 社会人になってからも、そのアルバイトを続けて十数年。三〇代半ばになり、未婚でコンビニでアルバイトとしていると、社会は次第に「異物」のように「私」を見始める。学生時代の同窓会の場でも、未婚で、コンビニでバイト生活の自分は「普通の三十代の女性」からは「異物」とみられる。

 それでも、なんとか平穏でいられた状況を急変させたのが、新しくアルバイト店員としてやってきた「白羽」君だ。針金のハンガーみたいな三十代の男。
 婚活目的でやってきた彼は、自分が勤め始めた職場であるコンビニを見下し、しかもまともに働かず、不平不満ばかり述べ、他店員、店長から嫌われる。屁理屈の社会批判をぶちまけるだけで、仕事はできない嫌な奴として、職場の「異物」と扱われる。当然、「私」も職場の皆と同調し、白羽君を異物視していた。

 ところが、「私」はひょんなことから、白羽君を自宅アパートに泊めることとなり、二人の間に、取り引きが成り立つ。社会に対するある種の共犯関係が生まれる。
 「私」は、この男を部屋に置いておけば、異性と接触のない三〇代の未婚でコンビニでバイトという「異物」扱いされる状況から外面的には逃れられる。「よくある主婦のアルバイトです」という口実ができる。
 「白羽」君の方は、こんなくだらない世の中の人間たちと自分は関わりたくないんだから、「世界から隠れたい」。「私」のアパートにずっといさせてくれれば、今まで支払いができなくなった自分の部屋の家賃の取り立てからだって逃れられる。

 そこで、自分たちを「異物」とみなす「正常」な社会に対して、「普通の人間」を偽装する共犯関係ができあがる。ただ、アパートの一部屋という空間でともに生活するようになっても、一方が風呂場や押し入れに籠もるだけで、何の交流もない。

 結局、白羽君との同棲が店に知れ渡り、好奇の目と過剰な祝福の言葉に、コンビニにいづらくなった「私」は、店を辞め、「白羽」君に背中を押されるようにして、正規雇用への応募に動き始める。
 しかし、面接会場に向かう土壇場になって、やはり自分が「コンビニ人間」であることを改めて自覚し、白羽君との共犯関係を断ちきり、「コンビニ人間」に戻る決意をする――。

  ★ ★ ★ ★ ★ 

 読みやすいこの作品の文学的魅力はいろいろみつけられるが、そのひとつは、社会の境界線の「こちら側」と「あちら側」を移行するドラマの変転の目まぐるしさにある。
 小さいころから社会の「異物」だった「私」は、大学生になってのコンビニのアルバイトで、自分の居場所を見出し、家族からも一定の評価を受ける(多少の社会復帰)。しかし、アルバイト生活が長年続き、三〇代半ばになると、再び「異物」とされる。その異物視を免れようと、異物仲間の男と表面的には同棲生活を始め、好奇も交じった祝福を社会から受け「正常」世界に戻り「異物」とみる視線を免れるはずだった。ところがそこには無理があり、結局、正常と異常という分割の線引きに拘るよりは、自分に正直であろうと、再び「コンビニ人間」をめざす。

P1130006_6 社会の規格(常識)と、規格外(非常識、異常)の間は必ずしも明確ではなく、また、人々は必死で規格(常識)でありたいと欲し、同時に規格外を「異物」として括り排除する。
 「正常」と「異常」、「普通の人間」と「マニュアル人間」、「世界の部品」(規格内)と「部品外」(規格外)。こうした分割線はいくらでも引けよう。

 社会の「異物」にはなりたくない、というのも苦労するし、他者を異物として排除する側も、自らが異物とならないように必死だ。それが、昔から変わらぬ職場や世間のありよう。
 もちろん異物視するにも、それなりの根拠はある。遅刻が多い、休みが多い……では、たまったものではない、と。

 「私」が選んで働くコンビニでは、「働くメンバーの一員であることが何よりも大切にされていく、……。性別も年齢も国籍も関係なく、同じ制服を身に付ければ全員が『店員』という均等な存在だ」。
 この事実は、一面素晴らしい達成といえる。もちろん、アルバイト、社員等の区分・差別の問題はあるけれど。

 一方の白羽君は、なんでもかでも問題を社会の責に転化させる左翼主義にもみえるし、あるいは自らの弱みを直視できずに身近な弱者叩きで自己を誇示するニーチェかぶれの優性思想(差別主義)にもみえる。
 そういう要素も含めて、作者はうまく描いている。

 ある読者は、「私」の「コンビニ人間」「マニュアル人間」ぶりに、情けなさや怒りを感じるかもしれない。
 別の読者は、「私」の「コンビニ人間」ぶりに、素直に生きようとする志の潔さを感じるかもしれない。
 また、別の読者からは、「コンビニ人間」でよいけれど、このままでは生活設計が成り立たない、生涯「コンビニ人間」でもやっていけるように社会の仕組みを改めるべきだ、いや「私」が正社員を目ざせばよい、と様々な提言もありうる。

 そうした様々な感想の手前で、作者の村田さんは「私」をそれなりの共感を抱きながら描いている。
 救い、光と感じられるのは、物語の最後で「私」が、これまでになかった体験だけれど、自分の細胞が生まれたばかりの甥っ子の明るい声と共鳴しているように感じたこと。それこそが、「私」の新しい一歩にちがいない。

  ★ ★ ★ ★ ★ 

 自分が自分であろうとして自分になれない、青春のそういうキツさは、いつの時代にもある。
 私自身の実感で語れば、一九六〇年代は、自己であろうとして自己たりえない疎外的な状況に対して、ずいぶん歪んだかたちも含めて、さまざまな反抗があった。それが、自己回復をめざすひとつの道だった。
 その道が自己崩壊するように崩れて閉ざされてからの一九八〇年代は、崩壊とともに立ちのぼる灰燼がくすぶる中で、どのように自己と誠実に向きあうのか、それが問われた。観念を肥大化させない倫理が問われた。

 二〇一〇年代半ばの「私」は、明るい「小さな光の箱」であるコンビニでの労働に、自己回復(承認)の道を求めた。マニュアルどおりであろうがどうあれ、たしかにそこには同僚やお客との心の価値交換がある。

 これまでの「私」は、「人間」であることを感じられたとはいうものの、「小さな光の箱」(コンビニ)に入ることを強いられていた。しかし、生まれたばかりの甥っ子の声と自分の細胞が共鳴し始めた今の「私」、三〇代半ばの「私」は、「小さな光の箱」を改めて自ら選びとるのであり、所与の器と受けとめるだけではすまなくなるに違いない。キツさが増す分、喜びも増せばよいが……。
 どうあれ、それを引き受けざるをえない。

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2016年7月24日 (日)

村上春樹とイラストレーター

「村上春樹とイラストレーター」
~佐々木マキ、大橋歩、和田誠、安西水丸~
(ちひろ美術館・東京)

Img_20160722_1617311 村上春樹の作品に絵を提供したり、彼と共作したイラストレーター、佐々木マキ、大橋歩、和田誠、安西水丸の四人の作品が飾られている。その下には、掲載された単行本も置かれていた。
 場内には、ビル・エヴァンスや、アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズなどの曲が流れていた。ちひろ美術館でジャズを耳にするとは思っていなかった。
 四人のイラストレーターの中では、初期三部作(『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』)に参加した佐々木マキの絵がやはり懐かしい。

P7240579_3 詳細な年譜が会場に掲示されている。それを眺めながら、自分史を重ね、年代を辿り始めてみた。
 彼の作品やインタビュー記事を見つければすべて集めていたのは、一九九五年前後までだったと、振り返る。
 村上さんがデビューしたのは一九七九年だが、当時は図書館にあった文芸誌「群像」に「群像新人文学賞」として「風の歌を聴け」が掲載されたのは知っていたけれど、とてもそれどころではない争闘に明け暮れる日々だったので、時間も心の余裕もまったくなく、読むことはなかった。
 そのデビュー作を単行本で読んだのは、二年ほどあとの一九八一年ごろ、争闘の穴倉から眩しい地上に這い出してからのことだ。
 以降は、刊行されるすべての作品や関連記事が現れるたびに、集めて読んだ。

 彼の作家活動初期にあたる一九八〇年代という時代は、わたしにとっては、六〇年代後半の反乱の季節、さらに七〇年代のニヒルな散文的争闘の時期にどう決着を付けるのか――それがテーマだった。そのとき、彼の初期三部作や短編集『中国行きのスロウ・ボート』、そして『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、渇望していた文学的欲求に十分応えてくれるものだった(在野の哲学者小阪修平さんにとっても、事情が同じだったことは『村上春樹と小阪修平の1968年』(二〇〇九年刊)で記した)。

 デビュー間もない村上さんの世界に対しては、左右上下からさまざまな批判が浴びせられてたけれど、それらを反批判しつつ書いたのが、ペンネームで上梓した『村上春樹の歌』(一九九〇年刊)だった。当時、村上春樹論はまだ世にほとんど出ていなかったけれど、ニヒリズムの黄昏で当時うたいうる歌を、もっとも誠実に、かつラディカルにうたっていたのは、村上春樹を措いて他にいないことを、明らかにしたかった。

 歳月を重ねれば、向いている方向のズレもはっきりみえてくる。『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥クロニクル』あたりから、異和を覚えるところも出てくるようになった。当然のことだ。
 以降はすべてを追うことは止めたが、それでも、エッセイや雑文集は別として、長編や短編は刊行されれば目を通してきた。
 『1Q84』は期待して読み進めたが、BOOK3では肩すかしを食らった感がある。

 同時代を生きてきたものとしては、『1Q84』で途中からずらしてしまったようにみえるテーマと、ぜひもう一度、対峙していただきたい(もちろん自分にも課せられたテーマだと自覚し作業を継続しているけれど……)。
 その来たるべき書のカバーイラストを佐々木マキさんの絵が飾ってくれれば……、と無理を承知で願うのは、村上ワールドの原点が初期三部作に凝縮されていると思えるからだ。

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2016年7月 9日 (土)

九二歳のシャルル・アズナブール

 「日本最後のツアー」と銘打たれたシャルル・アズナブールのコンサートが、六月下旬、NHKホールであった。大阪で一日、東京で二日だけのライブ。
 前回、国際フォーラムで聴いたのは二〇〇七年だから、十年近く経っていた。

 アズナブールさんは一九二四年生まれの九二歳。
 この年に生まれた著名人を、好みで少しだけ挙げてみる。
 俳優の鶴田浩二。同じく俳優の京マチ子。作家の吉行淳之介。評論家の吉本隆明。歌手の越路吹雪。
 海外では、ジャズ歌手のサラ・ヴォーン。作曲家で指揮者のヘンリー・マンシーニ。作曲家のモーリス・ジャール。
 いずれの方々も鬼籍に入り、かなり歳月が流れている。
 今もご健在で活躍されているのは、染織作家の志村ふくみさんくらい。

P70905711 同い年生まれがこうした状況の中、シャルル・アズナブールさんは二時間近いライブを、ほぼ立ちっぱなしで歌い続けた。途中、幕の奥に退いたのは、娘のカティアさんがマイクを握って歌った曲のときで、それも途中から舞台に現れデュエットに。

 たしかに、声の伸びは弱まり、音程を辿れない部分は少なくなかった。けれども、それが気にならないほどの歌い語りで、客席を魅了してくれた。
 「ラ・ボエーム」「帰り来ぬ青春」「哀しみのヴェニス」「忘れじのおもかげ」「愛のため死す(炎の恋)」「二つのギター」などの定番だけでなく、初めて聴く曲もいくつかあった(昨年発表したアルバムはすべて新曲の新録音)。

 軽やかに踏むステップの動きは、九年前より小さくなったようだが、魅せてくれた。
 手と指のなめらかな動きは、変わらない。歳を重ねれば強張り、動きが硬くなりそうなものだが、とてもしなやか。
 一九六〇年代、七〇年代、八〇年代……あの時代の生のかたちと手触り、匂い、そしてそれらを地層に重ねる「いま」の情感が歌いあげられ、堪能させてくれる一夜だった。

 四月に武道館でコンサートを行ったエリック・クラプトンは七一歳。相変わらず、背筋を伸ばした堂々たる立ち姿で演奏を披露してくれた。ただ、七一というのは手の届きそうな年齢で、心身の状態も想像しやすいけれど、九二となるととても想定できない。
 アズナブールさんだって、日常生活では周囲にケアされることが少なくないはずだろうに、歌でたくさんの人の心を震わせてくれる。
 先達の姿に力をいただく。

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2016年6月12日 (日)

『京都ぎらい』の屈折

〇洛中の杉本家Kyoutogirai_2

 「京都人」でありながら、「洛西」(洛外)に生まれ育ったゆえに、「洛中」に抱く屈折する心情を吐露した書。それが「京都ぎらい」のみならず、「京都ずき」をも引き寄せるようで、「2016新書大賞」に選ばれている。
 もう一年近く前に刊行された『京都ぎらい』だが、最近手にとってみた。素朴な「京都ずき」の私にも、著者の屈折した心模様はそれなりにわかる。

 著者が「京都ぎらい」になるきっかけの舞台は、洛中の綾小路新町に構える京町家(屋)である杉本家。
 知られるように、杉本家は奈良屋の屋号で寛保年間に創業した京呉服の商家で、建物の規模は洛中最大級といわれている。代表的な京町家であり、私も十年以上前に、取材でお邪魔をさせていただいた。また、祇園祭の折に寄らせていただいたこともあった。
P1010067
 その頃、九代目当主を務めていた杉本秀太郎氏はフランス文学者で、国際日本文化研究センター教授などを歴任、エッセイも残している(昨年逝去)。
 取材のとき、応対してくださったのは、奥様だった。にこやかに、そしてとても丁寧にお話してくださったことは、今も忘れられない。「日本のお母さん」という雰囲気を醸す方が京にも住んでいるのだ、とうれしくもあった。

〇「肥をくみにきてくれたんや」

 さて、京都人でありながら「京都ぎらい」を自認すP1010086る著者井上章一さんは、この杉本家に一九七七年、町家調査のため訪れた。そのとき、初対面だったご主人の杉本秀太郎さんが、「君、どこの子や」と尋ねる。「嵯峨からきました」と答えると、杉本氏は、なつかしいと言い、「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」と告げたという。
 これを井上さんは、「いちおう感謝の気持ちもこめたかったように、くみたてられている」が、そこに「揶揄的なふくみのあることは、いやおうなく聞きとれた」と振り返る。「私は田舎者よばわりをされたのだ」と。「洛中」の杉本さんから、嵯峨という「洛外」育ちを侮蔑されたのだと。
 これをきっかけに井上さんは、「洛中であじわった屈辱の数々」を書き連ねていく。それが本編をなす。

 今は亡き杉本秀太郎氏のものいいが、著者井上さんが嗅ぎとったように、侮蔑的なものだったのかどうかは、なんともいえない。ただ、井上さんはそう受けとめた。
 杉本氏がどんなニュアンスを込めていたかどうかは別として、洛中と洛外という「関係の絶対性」が、杉本さんと井上さんにそういう意識を自ずと醸成させてしまったのだろう、とはいえる。

 杉本秀太郎さんは、助教授として国際日本文化センターに入り、のちに教授に就任。井上さんも同じ日文研に在籍している。二人が初めて会ったのは、肥汲み発言事件のときだが、のちに同じ職場で顔を合わせていたことになる。きっとそこでもさまざまなやりとりもあったろうから、仕事ぶりや研究ぶりをつぶさに見て、杉本さんが「しっかりせいや」と思っていたのかもしれない。そんな心的なやりとりが、かつての肥汲み発言事件の陰影を井上さんの心のなかに深めさせた可能性も否定できない。杉本秀太郎さんがなくなられたのは昨年の五月。『京都ぎらい』の本が出たのは、その数ヵ月後のこと。封印が解かれたかのように出版されている。

〇京女のプライド

 ただ、どうあれ井上さんが、杉本さんから、そして洛中人から蔑まされと「感じた」ことは間違いないし、杉本秀太郎さんがどうかは別に、洛中の人にそのような意識が存在することはたしかなことだ。

 井上さんは、洛中(人)と洛外(人)の意識の差、差別・被差別的構造を明らかにする。洛中という狭いエリアだけでなく、京都人の「中華思想」は、昔からしばしば指摘されたきたことだ。本書にもあるように、京都以外の関西人はとくにそれを感じていた。だから、本書を読んで溜飲を下げることになる。

 そして、京都の中華思想は男だけの専有物ではない。以前仕事をお願いしたことのある作家さんのお話を引かせていただこう。関東で育ち、東京の大学を出たその方は、京都で大学院時代を過ごしている。そのとき、生粋の京女とおつきあいをしていたそうで、相手の京女から受けた説教言葉を記している。
 「あんたなあ、東夷(あずまえびす)に京女が玉の肌を許すなんて、昔ならありえないこっちゃで。最高の屈辱やで。わかっとるか。コレ、聞いとるか? ありがたく思わんとイカンよ」。ありそうな話で、シーンが浮かんでくる。

 「そんなのあたりまえやんか!」。
 祇園で酒を飲んでいたとき、この話を紹介したところ、京女の心情に共感し、かつ東夷に対して少しばかりいらちの表情をみせて憮然とこう答えたのは、根っからの京都人・京キース氏だった。
 氏は、京に中華思想があることを素直に認めていた。「東京人は、おれは江戸っ子というかもしらんけど、たかが江戸時代から。京都は江戸の前からずっと都や」。

〇さらなる恨み

 京には数年間住んだが、私のような、京都への「お上りさん」には、当然井上さんが抱えこんだような屈折はまったくありえない。もともとが、京都の外、東夷の野郎にすぎないからだ。京都の人はよそさんには意地悪いと言われるが、差別されたり、蔑視されたりしたことと感じたこともない。むろん、自分の鈍感によるところも多少あったに違いないが。
 だから、洛中の人が洛外の人を侮蔑しても、「そんなの気にせんといたら」と言ってみたくなる気持を抑えがたい。しかし、京都人と思っていたのに、その内部で排除され、侮蔑を感じれば、著者が感じた屈辱も払拭しがたいのだろうと頷ける。

 そして井上さんがさらにいまいましく感じるのは、差別されてきた自分もまた、嵯峨よりさらに外縁に位置する亀岡や城陽を低く見てしまっていることだという。差別される自分が、さらなる外側に向かって差別者となる。これで一層深い屈折を抱えこんでしまった。「いつの間にか、京都人たちの中華思想に、汚染されてしまった」と。「自分をみょうな差別者にしてしまったのは、京都人である」と、洛中の人間をますます恨むことになる。

〇弁証法的「解決」の道

 このように「外」が「中」に抱く屈折を解決する道がないわけではない。野暮P1010044な哲学話に堕すけれど、話をそちらへ移してみる。
 ヘーゲルの「主人と奴隷」論をもちだすまでもなく、「主人」は「奴隷」なくして主人ではない。奴隷も主人なくして奴隷ではない。これは好ましい喩えではないかもしれないが、すべて同じことだ。
 「洛中」もまた、「洛外」なくして自己(洛中)たりえない。もう少し強くいえば、主人は奴隷において主人であるように、「洛中」は「洛外」において「洛中」である。
 だから、「洛中」なんて「洛外」が存在しなければありえない。つまり「外」が存在しなければ「中」なんてない。「中」という概念は、「外」という概念において、自分であること(自己主張)できる。外なくして中たりえない。繰り返せば「外」に依拠して初めて「中」として存立しうる。
 それだけでしかないんだぞ、と言い切って、おしまいにできる。でも、「京都人」と自己認識していた人ゆえに、そうは割り切れない。その心情はわからなくもないけれど……。

 肥を汲み取りに来る「外」(嵯峨)の人に、「中」の人は助けられている。「洛中」も「洛外」に依存している。
 それは何についても同じだ。「都会」もまた、「田舎」に依存している。田舎がなければ都会たりえない。概念としてありえないし、なにより営みとしてもありえない。「洛中」と騒いだとて、「洛外」なくして「洛中」ではありえない。
 だから、「京」、もっと狭めて「洛中」とは、自らの純粋性を絶対視すれば、フィクションにすぎない。そんなことは、私のような単純な「京都ずき」でもわかっていることで、それをお互いにあえて言い募る野暮には陥らないようにしてきたことだ。ところが、「京」の内側同士では、それが結構露わに吹き出してしまうということなのだろう。

〇洛外に支えられた洛中

 視点を拡大してみる。京という町もまた、京都外の(あるいは海外の)観光客、旅人(つまり「お上りさん」)に依存している。京都人の生活にとって、ぞろぞろと集まる観光客は迷惑なものだが、その旅人、お上りさんによって京都の町も支えられている。
 京都に数年間仮住まいしていた私の部屋は、鞍馬口通に面していた(「鞍馬口通」と聞くと、人はあのDscn25221_2鞍馬寺、そしてそこへ至る道と想像し、ずいぶん北を想像される方が多い。しかし地下鉄烏丸線の「鞍馬口」駅は、「今出川」のひとつ北の駅。概ね「洛外」とされるが、「外」と「中」の線上とみる説もある)。
 その住まいのそばに、上御霊神社があった。応仁の乱、発祥の地である。そこでひと休みしていたとき、団体さんが続々と絶えることなく詰めかけてきた。そうなると、自分が京都人になったつもりになって、「外部」から訪れる人の団体行動にいささか困惑した。そういうシーンは仮住まい時代、さまざまなところで体験したから、京都人の心情もよくわかる。
 それでも、外部の人々によって、京は支えられている。

 そもそも杉本秀太郎さんの奥様は、伏見の造り酒屋から嫁いでいらした。ご主人は学問・文芸の世界に没入されていたから、家を守るのは文字通り、奥様の手にかかっていた。井上さんの視点に立てば、「洛中」の杉本家は、「洛外」(伏見人)の力で存続でき、町家を保存できた。公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会の理事としてご尽力されてきた奥様のお力が大きい。
 「洛中」は「洛外」によって支えられ、洛中たりうる。保存会を支えるのは、洛外のみならず、洛外にも入らない全国の市民によっている。
 そんなふうに割り切れそうにも思うのだが、そうすっきりできないのは、京都人でありながら洛外という微妙な位置に、井上さんが生まれ育ったゆえだろう。

〇産業社会としてみる視線の必要性

 洛中人のプライドは、たとえば「西陣」をも排除する。井上さんは、中京生まれの友人の、次のような言葉を紹介している。「京都を西陣のやつが代表しとるんか。西陣ふぜいのくせに、えらい生意気なんやな」。
 京に住んでいて、先述した京キース氏にいろいろお話をうかがっていたとき、「宇治」や「伏見」はもとより、「西陣」だって、洛中とはいいがたい、と聞いたことがある。
 ただ、京キース氏は、次のように補足することを忘れなかった。京にある二つの集落である西陣村と伏見村は、それぞれ織物産業、酒造業を生業としている、と。つまり、西陣であれ、伏見であれ、それぞれに独自の「産業社会」が形成されていた。当然そこにはその外部からも働き手がやってきて、社会がつくられてきた。
 人はただ生きているわけではない。洛中、洛外にただ存在してるわけではない。働いて生きている。さまざまな産業が併存する中で、人は相互依存的に生きられる。
 西陣では織物、伏見では酒、そして井上さんが生まれ育った嵯峨(洛西)や洛北では農業が営まれ、おいしい野菜もつくられていた。
 伏見はもとより、西陣も、さらには鞍馬口通より北の洛北も、洛中からは一線を引いてみられていたことになるけれど、そこでの生産物に洛中人は依存せざるをえなかった。

 生粋の洛中人というのが存在するのかどうかわからないけれど、もしそういう方がいるとすれば、洛中が洛外に依存し、洛外に負っているという冷厳な事実はきちんと受けとめているはずである。
 ちなみに、杉本家の奈良屋を起こした初代は、伊勢の松阪から「上京」している。だいたいがそんな経緯だろう。
 洛中と洛外で切磋琢磨しあって、もっともっと京のよさを磨いていただきたい。「中華思想はごもっとも」と、「お上りさん」を唸らせていただきたいものだ。「京都ずき」は心からそう願っている。

〇「イノウエショウイチ」という名

 ところで、京に住んでいたとき、京都や関西の人と酒を酌み交わしていると、何度か、「イノウエショウイチ」という名を耳にした。それまでは、失礼ながら不勉強で、井上章一さんのことを知らなかった。
 皆さん、口を揃えてこう語っていた。「かつて京都は誇れる学者、文化人をたくさん輩出してきたが、最近は傑出した人物がみられない。ほんとうなら、イノウエショウイチさんがこれを継ぐべき人物だが、彼は美人論やプロレスの軟らかい方向に流れていて……」
 ただ、こうした苦言を多少は呈しつつも、皆さん、井上さんを嫌ってはいないようで、微笑みを浮かべていた。彼の力を見抜いて、これからを期待している様子なのだった。

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2016年1月16日 (土)

内田聖子『森崎和江』

 森崎和江という名は、谷川雁とともに語られることが多い。
 私もそうだった。だから、しっかり読んだ彼女の著書は、一九七〇年に刊行された『闘いとエロス』くらい。それは、谷川雁と森崎和江が関わった筑豊のサークル村運動、大正炭鉱での争闘現場を主舞台にしたものだった。
 内田聖子さんの手になる今回の評伝で、森崎和江さんの生い立ち、背負ってきたものの重さと背景を初めて知ることができた。

Morisaki1 本書は、森崎自身の著書や、参考となる書物・資料、さらに著者内田さんが独自に取材して得たさまざまな情報も交えてまとめたもので、森崎和江という存在の豊穣と輝きを読者に提示する。それを可能にしたのは、内田さんの女性らしい味わいと香りをもつ文体ゆえだろう。その捌き方は森崎和江を敬愛する想いで支えられているものの、社会情勢の把握も含め、冷静な目を失ってはいない。
 編集者にも恵まれたのだろう、内田聖子さんの代表作と位置づけられそうだ。いかにも菊池信義さんらしい装丁も好ましい。

 森崎和江が、当時併合していた朝鮮(現・韓国)で生まれたのは昭和二(一九二七)年。高校教員の父が同地に赴任していたためだ。
 家には朝鮮人のお手伝いの娘さんがいた。「毎日ぬくぬくと豊かさを享受して育っている自分が、彼女らを支配している日本人のひとりであること」を認識したのは、九歳ごろのこと。「朝鮮で生まれ育った内地知らずの内地人」として居心地が悪く、自分自身のアイデンティティをつかみがたくなる。さらに、創氏改名や朝鮮語の禁止など日本側がとる支配の圧政と、それに反発する朝鮮人との間で、子ども心に葛藤が膨らみ、それが原罪意識のように締めつけてくる。
 著者は併合した朝鮮での生活での細やかな心の動きまで探り、森崎の「植民地二世」としての負いと、そこから自己を問い直す作業を生涯強いられたことを、読者に伝える。
 そして、谷川雁との出会いと決別、さらに以降の表現活動と、森崎の辿った軌跡を丁寧に描いている。

〇産むこと 生まれること

 自分の関心に惹きつけて、二、三を記してみる。
 本書では「産む」ということについて触れられている。「死は思想や哲学や宗教の対象となるのに、産むことは思索の対象として発展してこなかった」と指摘する。「女たちの孤独」が森崎のテーマのひとつであり、著者はこれに共感を寄せる。

 以前、私は『吉本隆明と「二つの敗戦」』(二〇一三年刊)で、こう書いたことがある。
「ところで、少し横道に逸れるが、ハイデガーは、『死』とともにしか存在しえない人間(現存在)のありようを深く掘りさげた。しかし、死の発端、死を死として生起させる前提となる『誕生』については、なぜかほとんど触れることがなかった。それは西欧的知の守備範囲から外れるからではないだろうか」と。
 西欧形而上学を批判したハイデガーですら、生誕のほうに目が行き届いたとはいいがたい。それは西欧に限らず今日の「男的」思考が欠落させているところでもある。

 「産む」こと。「生まれる」こと。そして著者が「台所は戦場でいうところの本丸であろう」と見抜いた核心にある「食べる」こと。いのちの誕生と、いのちをつなぐこと――こうしたいのちの基礎的な営みは(西欧的)近代があえて無視したり、単なる手段として軽んじてきたことだ。けれども、これを包みこむ、あるいは包もうと努める思想こそ、今日切に求められている。いいかえれば、「いま、生きてある」を問う存在観(存在論)の出現だ。

〇サルトル、ボーヴォワールと

 一九六六年、ボーヴォワールとサルトルが来日した。当時西欧的知の最先端に位置する知識人であり、かつ「契約結婚」という新しいスタイルがもてやはされた二人だけに、マスコミは来日を大きくとりあげた。
 二人は、翻訳家朝吹登水子を通じて森崎と会うことを求めた。彼らが会ったときの様子、会話を、内田さんはいくつかの資料をもとに再現しているが、どうも両者の会話が噛みあったとはいいがたい。

 ボーヴォワールは平等と自由の権利確立を通じての女性の自立を追求する。それは西欧近代的主体(主観)の確立を、遅れた東洋・日本に啓蒙するものだった。
 後年、ボーヴォワールはこう語った、と本書で紹介されている。
「わたしの知っている親子関係ときたら凄まじいですよ。私はその逆で、そんな関係を持たずに済んで本当にありがたいわ」。
 結婚という制度に依る・依らないも個の判断だし、子を産む・産まないも個あるいは対の判断であったり、可能性の有無や偶然であったりする。是非が論じられることではないはずだ。
 ただ、「凄まじい」とされる親子の「関係を持たずに済んで本当にありがたいわ」というとき、自然過程としての「産む」(生まれる)ことの深さ、重さ(それは存在することの深さであり、重さである)について考えることが捨象されてしまう。

 相方サルトルの「実存主義」も同様の問題を抱えている。主体性、主体の「投企」、「自由」……すべての基礎は近代的主観を前提とする世界観に基づいていた、たとえサルトル自身が乗り越えたつもりでいたとしても。
 たしかに、権利の確立と自由を謳う西欧近代的主張は、いまでも切実さを失ってはいないところもある。けれども、西欧的近代思考や啓蒙の限界が露呈しつつある。
 森崎はそれとは異なる次元で苦闘していた。

 一時彼女のパートナーであり、彼女が大きな影響を受けた谷川雁も、本書の中でそれなりの位置を占めている。
 著者はすでに『谷川雁のめがね』を著しているが、谷川が牽引したラボの活動でチューターとして自ら関わり、まぶしく見上げながら谷川と接触した体験があるだけに、森崎の谷川へのアンヴィヴァレントな想いもうまく表現されている。
 谷川雁の具体的な言葉はもう挙げないけれど、彼は共同的世界と対的世界の次元の違いをうまく切り分けられなかった。それはつねに私たちの課題でありつづける。そう、改めて思い知らさせる。

 本書を通じてみえてくる森崎さんが抱えたテーマは、決して古びていないばかりか、今いよいよ重みを増すことを教えられた。

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2015年12月31日 (木)

鈴木孝夫と三木成夫

~西欧知の黄昏にて 動物的原理・植物的原理~

 「ミネルヴァのふくろうは、黄昏がやってくると初めて飛びたつ」と書いたのはドイツの哲学者ヘーゲルだ。「ミネルヴァのふくろう」とは哲学、知を指す。哲学が現実の社会をしっかりとらえられるのは、社会が成熟し仕上げられたとき、つまり黄昏がやってきたときである。飛びたつふくろうは、新しい時代の姿も自ずから告げるはずだ。
 ヘーゲルがこう書いてから二百年近く経つ。いま西欧(欧米)的近現代は明らかに黄昏を迎えている。しかし、ミネルヴァのふくろうが西欧の地から飛びたっているようにはみえない。羽音は極東の島から聞こえてくる。

〇「欧米が普遍」信仰を棄てる

 鈴木孝夫さんは、一貫して「西欧絶対主義」、「欧米中心主義的な考え方」を批判してきた。これまでわたしたちが目にするそうした批判の多くは、欧米へのコンプレックスの裏返しとしてあった。しかし鈴木さんのそれは従来のものとは異なる。言語社会学、海外留学、長年にわたる文化交流を通じて、「バスト型外国観」をうち破り「下半身」も含め西欧的原理を冷静に相対化し、さらに二〇世紀社会の爛熟と危機を踏まえたものであるからだ。

Suzuki1 鈴木さんは語る、そもそも西欧文明とは普遍でもなんでもない「ある時期のある地域の特殊現象だ」と。「ヨーロッパが普遍に一番近くて、ヨーロッパ的になることが普遍への早道だと言うそれまでの考えをまず壊」さねばならないと(『私の言語学』)。言語学のみならず、すべての分野の学にそれはいえることだ。

 では「西欧絶対主義」「欧米中心主義的な考え方」とはどんなものか。「人間中心的な動物観」であり、「自他の対立を基礎とする」ものだ。
 人間中心とは、人間を最上位に置き、その下に家畜、野獣、下等動物と順に並べ、断絶した上下階層で生物をとらえるものだ。古代ギリシャ、キリスト教の流れを受けた人間観、自然観であり、自然(人間以外のもの)は制圧し支配する対象でしかない。
 それは他者との関係にも投影される。西欧文明は「強烈な自己主張と異質な他者への容赦ない排除を文化原理とする」(『日本人はなぜ日本を愛せないのか』)。自分が世界の中心に立つとする文化だ。

 その背景を、鈴木さんはたとえば食料源の面から探り、ユーラシア大陸と日本とを対比させている。ユーラシア大陸文明は「家畜+穀物(主として小麦)複合体」が生活基盤となっている。これにたいして日本は「魚介+穀物(米と雑穀)複合体」である。そして「動物性食料源が家畜か魚介か」の相違が世界観を分けてきたというのだ。家畜は意のままに統御できる。それが動物のみならず人間をも支配の対象とするときの意思の強さを生む。支配と被支配の明確な区別、対立や断絶をもたらすことになる。ところが、魚介は人間が支配したり命令できる対象ではない。したがって人間以外の生き物とも共存しなければならない、あるいは他の生き物に生かされているという意識が生まれる。他者との関係でも、相手との摩擦、対立を嫌い、譲りあい支えあう。
 このような対比を、鈴木さんは攻撃的な「動物的原理」と穏やかな「植物的原理」と表している。あるいは「断絶の思想」と「連続の思想」、「ヤドカリ文化」と「サンゴ礁文化」と対比させている。そして今日世界の主導権を握っているのが「動物的原理」であることに警鐘を鳴らす。

〇人間中心主義による「文明の勝利」の黄昏

 じつはこのような「動物的原理」と「植物的原理」の対比を、生命形態学の立場から同様に問いかけて欧米的文明観を批判する人がいた。三木成夫さん(一九二五~八七年)だ。Keitaigaku

 三木さんは動物と植物の特徴を対比させる。植物は合成能力をもち、いながらにして自らを養うことができる。一方動物はいながらにして自らの体を養うことができないから、餌を求めて動かなくてはならない。植物は大自然のなかで根を張り、稔り豊かな一生を送る。動物のほうは、目先の餌を捕獲すべく動き回る。生物本来の栄養―生殖の営みを、植物は「自然と協力しながら」、動物は「自然とたたかいながら」行う。

 ところで、動物(人間)の体は、植物と動物のこの特性をそれぞれもつ器官群(植物性器官と動物性器官)で構成されている。植物性器官とは、栄養―生殖(吸収、循環、排出)をつかさどる内臓、血管などである(内臓系)。その中枢は「心臓」になる。一方、動物性器官とは、感覚―運動(受容、伝達、実施)をつかさどる骨格や筋肉、神経などである(体壁系)。その中枢は「脳」になる。

 三木さんは、生本来の営みをつかさどるのは植物性器官(内臓系)であり、それを目標まで持ち運ぶ四輪駆動車が動物性器官(体壁系)だと喩えている(『胎児の世界』)。あるいは、「動物とは、胃袋と生殖器に目と手足がついたもの」と喩える(『ヒトのからだ――生物史的考察』)。
 そして、動物のなかでも脊椎動物になると、動物性器官の筋肉や神経が植物性器官へしだいに張りだしてきて、植物性器官が外部の動きに敏感に反応するようになる。また、動物性器官は著しい分化を遂げ、なかでも神経系、とくに脳が発達する。その頂点に達したのが人間である。人間では、まわりを筋肉にとり囲まれた植物性器官(内臓、心臓)は外界の影響を受けて、「心情」が発達する。食と性という基本以外のできごとにも、心を揺さぶられるようになる。人間の心は、「動物性器官の構成要素である筋肉や神経が、植物性器官へ強く介入するところから、しだいにめざめていった」ものだ。
 他方、発達した脳には「精神作用」が働くようになる。自我の意識を生みだす。「心情」は植物的な営みを、「精神作用」は動物的な営みを表出したものにほかならない。さらに動物性器官が発達し強くなると、生の中心が心臓から脳へ移行する。動物性器官が植物性器官を強く支配するようになり、精神が心情を抑えこむ。

 このような人間の「自我」の行きつく先について、三木さんは次のように書いている。「人々は、その欲望にしたがって、しだいに自然のいちいちを評価するようになり、これをもとに自然を利用し、そして改造し、ついにはこの破壊を人類文明の勝利と結びつけてはばかるところがない」((『ヒトのからだ――生物史的考察』)。頭と心臓のバランスが壊れ、頭があまりに支配的になってしまった。その根底に、「ユダヤ・キリスト教の人類至上主義(ヒューマニズム)に象徴される、あの根強い人間精神の存在」を三木さんはみている。

 こうしてそれぞれの専門学を超えた鈴木さんと三木さんの論は、西欧文明批判として深く共鳴しあっている。動物的原理と植物的原理という象徴的対比から、期せずして西欧的世界観に異を唱えている。二人が現実に相まみえた形跡はないが、一九二五年(三木さん)、二六年(鈴木さん)と生年が大正末でほとんど同じというのは興味深く、ここに二三年生の谷川雁、二四年生の吉本隆明も加え、知の巨星について考えてみたい誘惑に駆られるが、それは本稿のテーマから外れるので控えよう。

〇「自由な人格」が際限なき経済拡張を強いる

 二人が批判した、動物的原理を核としてきた西欧の文明は、その哲学によく示されている。じつは西欧知が基本に据える「自由な人格」の確立こそ、「あくなき経済拡張」を強いているといわざるをえない。そこでは、世界を認識する主観を確立し(カント)、世界を概念把握し(ヘーゲル)、「地球全体の支配者、主人」になる(アレント)のが、人間の「自由」の姿とされる。自然性を振り払い、あるいは制圧し、自我を確立し、世界を支配するところに人格の自律、自由がある。「道徳」や「人倫(倫理)」を生み出すこの「自由な人格」論は一見まっとうにみえるし、近代を推進する力になった。だがこの思想は、その原理からしてあくなき経済拡張を要求しているのだ。二点、みてみよう。

 人格、精神は「野蛮、粗野」な自然を支配し、克服し、制圧することで「自由」を獲得できる。食うためにあくせく(労働)していては、自由になれない。衣食住のごたごたにできるだけとらわれない(あるいは他人・奴隷にそれを押しつける)先に自由が得られる。奴隷制が許されないなら、生産力、生産性を向上させることは至上命題となり、限りがない。資本制を厳しく批判したマルクスも、この論から自由ではなかった。
 だが人間は自然的存在であり、それを超克できはしない。仮にどんなに貨幣や食料を溜めこもうが、日々自然的存在としての自己と向きあわなくてはならない。むしろ自然と寄り添うなかに自由を見いだすしかないのだ。全き自由など存在しない。

 もうひとつは、ヘーゲルに象徴されるように、市民社会における「自由な人格」の確保の仕方だ。ヘーゲルによれば、人格は自らの身体を「所有」し、身体を精神化(精神による統御)することから始まり、周囲の「物件」(もの、自然)を「占有取得」することで、自由を拡充することができる。物件を所有する権利をもち、物件を他者と交換しあうことで、お互いの人格を承認しあう。分業が進むと、自分の欲求を実現するには、他者(のつくったもの)に依存しなければならない。物件の所有権を認めあい、商品を交換し互いに依存しあうなかで、市民社会における人格の権利と自由が保障される。つまり市民社会での「自由」は、所有権主張と拡大、交換で確立される。

 ところで、資本制社会では交換(売買)は、できるだけ安く買い、できるだけ高く売るのが原理である。利潤、資本を増殖させなければならない。当然、たえざる自然制圧、モノの所有拡大、たえざる売買(安く買って高く売ること)こそ、「自由」を充足させてくれる条件になる。所有と売買の欲求はとどまることなく拡大していく。こうして、「人格の自由」追求は「あくなき経済拡張」に帰結する。

 だが、こうして獲得される「自由」を、今日わたしたちは自由と賞揚できるのだろうか。これは「恣意」と呼ぶほうがふさわしいのではないか。もちろん恣意も大切だ。身分が固定され、気ままに振る舞えなかった封建制からの解放を、近代が「自由」と呼んだのはわかる。たしかに産業革命勃興期の時代状況をみれば、生産力発展論や市民社会論は時代にとってリアルな思想だったといえる。ヘーゲルもマルクスも「時代の息子」だった。しかし近代のこうした知の枠組みは、カント、ヘーゲル、マルクス以降の、マルクス主義も、ポストモダンも、そして「正義論」論議で賑やかなリバタリアニズムやコミュニタリアニズムに至る今日まで、変わることはない。それは極東の島の学をも覆い、わたし(たち)自身、それにとらわれてきた。

〇「戦線縮小」の道

 こうした事態を鈴木さんは厳しく批判する。「そこで分かった重要なことの一つは、『個人がいかなる考えを持とうとも、どんな生き方を望もうとも、すべてが許され誰もが楽しく生きていけるような社会が理想だ』とする進歩思想、つまり無制限な個人の自由と欲望の解放をよしとする考えは理論的に成立しえない、したがって実現不可能な空想であり、それは長期的に見た人類の存続自体をも危険な状態に陥れかねない間違ったものだということです」(『私は、こう考えるのだが。』)。

 一方、三木さんも深刻な懸念を示している、「……、ここで特に注意しなければならないことは、宗族発生(系統発生)的にも、個体発生的にも、おくれて現れた〝精神〟の世界が、いわば先輩格にあたる〝心情〟の世界を、ついには、とり返しのつかぬまでに侵略しつくそうとしていることである。この侵略行為は、われわれの好むと好まざるとにかかわらず、無意識のうちに行われていることであって、それは、すべてをのみつくす奔流を思わせるものがある」と(『ヒトのからだ――生物史的考察』)。

 ではどうすればよいのか。鈴木さんは「山登りで言えば人類は既に繁栄の頂上を極めてしまった以上、あとは降りるしか残された道はない」(『私は、こう考えるのだが。』)とし、「戦線縮小」を提唱する。
 これは、近現代とその基本動因の変換を根底から問うものにならざるをえない。あくなき生産力の発展こそ自由と幸福を確保する、という西欧知の自由(恣意)論、進歩論を超えるしかない。このときわたしが模索するのは、人間の欲求を否定する「道徳主義」に依拠するのでもなく、現在の経済システムに無批判に依拠するのでもなく、社会関係の組み替えを追求することだ。生産・消費・排出の過程と関係を組み替えていくこと。より多くモノを所有することや、交換(安く買い高く売ること)で貨幣・資本を殖やす欲求・欲望から、協働・協同の生産・消費(広く諸活動)による「交歓」へ。自然性を排除・制圧する人格の自由から、自然と寄り添う自由へ。知(自我)の絶対化に価値を見いだすことから、人格や知を相対化(ときには無化)することに価値を見いだすことへ。

 たしかに西欧的知から吸収すべきことはまだ多い。反省的運動も盛んに起こっている、食文化の多様性を尊重しようと、スローフード運動が北イタリアから始まったように。だが、西欧知の基本枠組みの時代的限界はもはや明らかだ。ミネルヴァのふくろうではなく、極東の島から知恵の鳥が飛びたち始める。

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 (2011年刊 鈴木孝夫研究会編『鈴木孝夫の世界 第2集』に寄稿)

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2015年12月26日 (土)

吉本隆明と小林秀雄(2)

~「第二の敗戦期」と「現代の超克」~

○「儲からない農業」の行方Afrika1

 しかし、九〇年代に入り、マルクスの史観にも限界をみた彼は、「アフリカ的段階」を設定し、高度資本主義のさらなる進展の追求と「アフリカ的段階」(プレ・アジア的段階)への遡行が同じであるような方法に活路を見いだそうとする。史観の拡張である。

 「現代の超克」を考えるとき、彼は「現代を超えること」とアフリカ的段階に下りることが一緒である方法に求めた。「上のほうに抜ける」こと、つまり産業のさらなる高次化と、「下のほうに抜ける」こと、つまり「自然にまみれた」アフリカ的段階に下りることが同じであるという方法を模索した。高度資本主義の進展(西欧的段階の先へ進むこと)は必然でありそれを阻んではならない。そのときアジア的なるものが消えることは避けられないと認識し、それを必然と受けとめていた。同時にそのとき、プレ・アジア的段階としてのアフリカ的段階を受け皿として用意していた。だから日本の現状を語るとき、アジア型農村の解体を押しとどめようなどとは考えていなかった。当然「ゆったりした農本的な生活の感覚」へ執着を示すこともなかった。むしろ、そんなこだわりをこめた言説を倫理的反動と蹴散らしてきた。それは農業のとらえ方に端的に示されていた。農業とそれを営む人がどうなるか、たしかにこれを「現代の超克」の重大なテーマとおさえていたが、他の産業と比べて「儲からない農業」が日本から消えるのは、是非を超えてやむをえないことととらえた。「農業離脱」は文明と歴史にとって不可避ととらえていた。誰も止められないし、止めてはならないと。

 ところが二〇〇八年、「農本的な生活の感覚」が違和にさらされていると慨嘆を漏らした。「農業離脱」を果たす列島が「農本的な生活の感覚」を失うのは避けられないはずだ。「生活の感覚」は、働きかける自然や産業との具体的関わりを外して抽象的になど存在しえないのだから。かねてから生活感覚の速度は産業の速度と重なると自らも認めていた。だからこの慨嘆は、『ハイ・イメージ論』と噛みあわない。彼の思考は引き裂かれていた、とみるしかない。もちろん、わたしはここで矛盾をあげつらいたいのではない。彼に引き裂かれを強いた情況の激変は、当然わたし(たち)が問われる課題にほかならないのだから。

○「恥ずかしそうな小さな声で」

 さらに注目すべき表現が並ぶ。同じ全集成の「2」の「新書版へのあとがき」では、こうも書いている、「西欧的(アメリカを含めて)段階とアフリカ的段階の中間にあって、わたしたち日本列島の住民は、アフリカ的段階を含めて、本当のグローバルとは何かを確定する好位置にある」と。続けて、日本列島の住民について、「単なる利潤や思想なきイデオロギー主義を超えることもできるひらかれた位置をしめているといってもいい、と恥ずかしそうな小さな声でつぶやいてもいいとしよう」と記している。

 このフレーズでは驚くことがある。まず、「日本列島民」が、「単なる利潤や思想なきイデオロギー主義を超えることもできるひらかれた位置をしめている」とするとき、「単なる利潤」が超えられるべきものと否定的にとらえられている。「単なる利潤」追求とは資本制の原理だ。吉本さんは資本制を無意識の「最高の達成」と評価し、八〇年代以降、その批判を原則として自らに封じてきたはずだ。ところが、ここでは「単なる利潤」追求の乗りこえに目を向けている。明らかに八〇、九〇年代の営為を根本からとらえなおす地点に立たされていた。資本主義のさらなる進展(超資本主義)、産業の高次化による価値増殖の先に未来を託した『ハイ・イメージ論』とは異なる地点に立っている。
 さらに読むものをはっとさせるのは、こういう述懐を、「恥ずかしそうな小さな声でつぶやいてもいいとしよう」と自己反省的な言葉で素直に表明していることだ。老いた吉本さんの、驚くべき率直性である。二〇〇八年段階で、吉本さんはこれまでの営為を問われていた。それが反面、小林の「反省なぞしない」にこだわらせた。

 もう一点、さらに補足しておくと、同じ二〇〇八年次のように語っている。「第二の敗戦期」である現代の課題について触れているくだりだ。「病気のことと、拡大する産業規模をどこで止めるか、止められるか、あるいは他に抜け道があるのかということを考えることが今の課題だろうと思います」(『貧困と思想』)。とても重大なことがさりげなく語られている。これまで一貫して資本制原理(である産業の拡大)に批判的な言辞を挟む論を一蹴してきたし、『ハイ・イメージ論』でも未来を切り拓く「産業の高次化」を語ってきた。ところが、その産業の高次化、産業規模の拡大にたいして、「どこで止めるか、止められるか、あるいは他に抜け道があるのか」という問いを投げかけるにいたる。思考の大きな転換を迫られていた。

○「三・一一」と「宿命」Jokyo2

 さて、現在における「宿命」を問わなければならない。小林秀雄は「大事変」(先の戦争)を、「一部の人達の無智と野心から起った」と反省しても、それは「はかない復讐」にすぎないし、力をもたない、歴史の必然性の怖しさを知らない戯言にすぎない、と言い切った。これにたいして、吉本さんは、「歴史の必然をものにしたいならば、わたしたちの思想が社会や国家や権力や、そういうもろもろのものから自立していることが必須の条件である」と自立の思想構築へ進んだ。吉本さんにとって、小林の目には「宿命」と写ったもの(歴史の必然)と格闘し、それを超えることが前提だった。その思想は、「黙々と戦争にしがたった多数の生活者」の思想とどこかでつなげなければならないと志向した。

 さて、晩年の吉本さんは「科学の進歩」を、小林の言う「宿命」と同じように受けとめている。たしかに「科学の進歩」は知の自然過程にほかならない。それを宿命といいかえることはできる。わたしたちがときに、いやだな、不気味だなといった心的なひっかかりを抱きながらも、科学の進歩は止められない。科学は「自然を拷問して口を割らせる」(小林秀雄)方向へどんどん進む。それは、是非を超えている。

 しかし、である。「科学の進歩」と、原子力発電所を生活圏で実際に稼働させることは、次元を異にする。いいかえれば、「科学の進歩」を阻んではならないから、原発を稼働させなければならない、と短絡させる必要はまったくない。そこには飛躍がある。原子力発電所を生活圏で稼働させなければ、科学が「進歩」したことにならない、わけではない。開発した原子力爆弾は必ず保持し必ず使用しなければならないという論が、短絡、飛躍であるのと同じように。しかもこの「進歩」は、使用済み核燃料棒という廃物のまっとうな処理をできずに、将来に押しつける甘えによって成立する。
 吉本さんは敗戦後と「三・一一」後とを比べ、「原発事故後は第二次大戦後の日本社会に似ています」、「今は当時と重なって見える」としている。しかし、敗戦後の知識人や文学者が反省もなしに立場を変えたときと、「三・一一」を経て、脱原発・反原発の声が(知識人や文学者ではない)多くの人びとのなかで勢いを増した事態を重ねるのは難しい。また、総力を挙げた「大事変」(「大東亜戦争」)と、原子力発電所の事故は、位相を異にする。原発は「核エネルギーの利用開発」の一形態の問題にすぎない。核エネルギー研究に科学の必然性はあっても、原発稼働という原子力利用の単なる一形態は、「歴史の必然性」でも「宿命」でもない。わたしたちの手によっていかようにも変更できる政策次元のことだ。

○近現代が迎えた敗戦期

 たしかに、『「反核」異論』のころ、(ソフト)スターリニズムとの闘いを独力で強いられた背景もみておかねばならない。吉本さんは、科学の知的探求自体に善悪の判断を挟んではならないという立場を一貫してとってきた。科学の進歩は妨げてはならない、「技術は必ず現在を超える」、これが彼の信念だ。技術は技術によって超えるしかないとするのは、一見するとハイデガーの技術論と似ている。近代技術とは別のところに、これを超える可能性をみるのではなく、技術のなかにこそ技術を超えられる可能性をみることにおいて。

 だが、両者の論は異なる。技術自体のとらえ方に違いがあるからだ。ハイデガーは「近代科学」が「自然現象があらかじめ算定できるものだということを、確保するような知識を追求するのです」(『技術論』)と、その限界を指摘し、踏まえている。しかし、吉本さんには技術を相対化する姿勢がみえない。肯定か否定か、進歩か退歩か、前進か暗黒か、そう二者択一を迫る構造のうえに立つ。科学の進歩を否定するのは退歩であり、暗黒への逆戻りである、と。おそらく彼の敗戦体験が深く影を落としている。あえていえば、「アフリカ的段階」の設定がその風穴を開けるものと位置づけられていたのだろう。

 「三・一一」の地震と津波は、自然の絶えざる生成の一環にほかならない。この自然の生成のなかで、近現代科学技術「進歩」の粋が脆くも崩れ、放射性物質が拡散した。さらに生産過程で生じる廃物の「最終処分」を曖昧に棚上げしてきた、わたしたちの身勝手を改めて露わにした。「三・一一」は近現代文明が抱える驕りと矛盾を露わにした。とすれば、第二の敗戦期というより、二〇世紀、さらに近現代が「敗戦期」を迎え、「進歩」が問い直される時期に至ったとみるべきではないか。ここでわたしは「進歩」に「反進歩」を対置したいのではない。むしろ、進歩か反進歩か、欲望か反欲望か、という近現代が立ててせめぎあってきた二項対立の思考構造が破綻したことを意味していると思う。そしてあの「六八年」という時代の運動は、そのことを先駆的に受けとめて起こったものではなかったか。

○与えられた課題

 人は相当の高齢になって大転換を図るのは難しい。最晩年の吉本さんは、むしろ変わらないことを貫こうとした。高齢と心身の状態を考えれば、そう処するしかなかったろう。それは批判でも皮肉でもなく、八〇代半ばまで生きぬいた人間存在の自然過程上で、避けられない貫きだと思う。そして二〇〇八年段階で大転換を迫られて漏らした「恥ずかしそうな小声でつぶやいてもいいとしよう」という率直な感慨を真摯に受けとめ、晩年の引き裂かれを直視し課題とするのが、彼の営為への礼儀と思う。字を読むことも歩行することもままならないなかで、それでも意識を研ぎ澄まし情況を受けとめ、その本質をつかもうとした、八〇代半ばの彼の発言を、しかと受けとめたい。「反省なぞしない」を評価しつつ、大転換を迫られていた事態をしかと受けとめたい。わたしの課題を列記してみる。

・吉本思想のOSとして設定された「大衆の原像」の再設定
・贈与論の近代的限界と「存在の倫理」のさらなる掘り下げ
・産業の高次化(価値化)とアフリカ的段階の追求を重ねる方法の問い直し

 いずれも「現代の超克」を考えるときに、避けて通れない課題である。今日でもいささかも色褪せない共同幻想論(対幻想論)、親鸞論(非知の問題)、心的現象論、母型論などとさらに対話し、糧とさせてもらいながら、その作業を進めるしかない。それが故人から計りしれない知的恩恵を受けてきたわたしが、その営為と労に多少でも報いる道である。 (おわり)

[2013年「流砂」6号掲載]

※吉本隆明さんをめぐっては、拙著『村上春樹と小阪修平の1968年』(2009年刊)内のⅡ部内「マルクスと吉本隆明の先へ」、及び『吉本隆明と「二つの敗戦」』(2013年刊)で論じている。

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吉本隆明と小林秀雄(1)

~「第二の敗戦期」と「現代の超克」~       

○「反省なぞしない」へのこだわりYosimoto12

 晩年の吉本隆明さんに、いったいなにが起こっていたのか。こう問えば、ひとは訝しく思うかもしれない。しかし、彼は明らかに厳しい転換点に立たされていた。
 二〇一一年「中央公論」六月号で「私が選ぶ『昭和の言葉』」という特集が組まれた。亡くなる前年のことだが、彼は小林秀雄の言葉「僕は無智だから反省なぞしない」を選んだ。敗戦直後の一九四六年二月号「近代文学」の座談会で、プロレタリア文学系の文士たちから、敗戦前後の姿勢について詰問されたときに、小林が切り返したことばだ。小林は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」とし最後に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と語った。

 戦時中は、大文豪といわれた文学者をはじめ知識人たちはみな戦争に傾き、肯定していた。ところが敗戦を迎えると、掌を返したように変節し、戦時中の自分を反省する作業もせずに戦後民主主義や平和主義を唱えるようになる。こうしたなかで、戦後体制におべっかを使わなかった小林の姿勢を、吉本さんは評価し、「自分が考えていることを言ってくれた気がした」と評価する。もちろん不満も込めている。「もう少し内面的に深く、長く詳しく考えを語ってくれることを期待していたので、はぐらかされたような想いもあって」と。自分の思いを代弁してくれたという共感と、深くは掘り下げてくれないもどかしさが混在していた。そのように両義的に受けとめながらも、主として、敗戦という情況の大変化にあっても安易に考えを変えなかった小林の発言に感心している。

 なにかと話題になる「週刊新潮」(二〇一二年一月五日・一二日号)の発言は、この延長でなされたものだ。同誌のなかで吉本さんは要約すると次のようにいっている。――原発事故後は第二次大戦後の日本社会に似ている。敗戦を機に価値観が180度変わってしまったから。敗戦直後の小林は、「自分はもう年寄りだからね、『今は違う考えになっている』なんて言う気はさらさらない。だから戦争中と同じ考え方を今も持っているさ」と答えていた。それに感心した。時代が変わると考え方も変わる。それは当然だが、僕はそれにもの凄く違和感があった。だから、福島原発事故を取り巻く言論を見ていると、当時と重なって見えてしまう――。

 小林秀雄の「反省なぞしない」しない姿勢を、吉本さんが晩年にあえてとりあげたのは、自身いうように、現在を「第二の敗戦期」ととらえていたからだ。わたしの知るかぎり、第二の敗戦期との表現は、九〇年代末からちらっと使い始めているが、本格的に発言するようになったのは、今世紀に入ってからのこと。「三・一一」はそれを決定づける事態だった。第二の敗戦期は、一九四五年と同じようにそれまでの思想営為を吉本さんに厳しく問うものだった。吉本さんは激しく揺さぶられていた。であるがゆえに、敗戦直後の小林の「反省なぞしない」に強く惹かれたのだろう。小林は、青年期の吉本さんにもっとも深い影響を与えた文学者のひとりだった。「僕は小林秀雄をずっと一生懸命追いかけてきた」と自認するように、終生彼の表現や生き方を追いかけてきた。その評価はつねに両義的だったが、時代とともに評価に重心の移動がはっきりみられた。そこに、吉本さん自身の立ち位置の変化もみえてくる。まず小林評価の変遷を辿ってみよう。

○ふたつの教訓

 「軍国青年」だった吉本さんは、二十歳のとき敗戦を迎える。それは「世界がひっくり返るほどの事態」(「戦争の夏の日」)だった。信頼してきた知識人がこの事態をいったいどう考えるのか、発言を待ち望む。「わたしは、戦争中、小林秀雄の熱心な読者であった。敗戦直後の混迷のなかで、この文学者の声はもっともききたい声のひとつだったが、聞きえなかったという記憶をもっている」(「小林秀雄――その方法」一九六一年)。敗戦後の小林は、「ランボオ論」「モオツアルト論」などを発表する。「しかし、わたしのききたかった声の半分は充たされなかった。戦争とはなにか、これから生きてゆくとは何かについてもはや小林秀雄からなにももとめえないのを知らねばならなかった」(同前)。
 戦前、マルクス主義者や近代主義者だった知識人、文学者たちは大政翼賛会へ流れ、さらに敗戦後、今度は再び立場をがらりと変え、戦後民主主義者、左翼同伴知識人に変貌し、「にぎやかな転換の声」を挙げるようになる。彼らは「藪医者」にすぎない。凡百のプロレタリア文学者たちより、小林のほうが優れていることを見抜いていたからこそ、彼が敗戦をどう受けとめ、何を考えているのか、その声に耳を傾けたかった。ところが小林は口を閉ざした。「他愛のない文学者のほうは、戦後にぎやかな転換の声をあげたが、かれは頑固に沈黙をひびかせていた」(同前)。小林の沈黙が戦争から深い痛手を負っていることを示していると理解したものの、その沈黙にはもの足りなさを感じ、失望の念を抱かざるをえなかった。もはや小林にも求めえない、という失望が広がった。

 敗戦前後の小林から、吉本さんは二つの教訓を得て、以降それを表現者としての自分に課した。ひとつは、知識人、もの書きである以上、情況への発言を怠るべきではないということ。沈黙をひびかせた小林への失望が、吉本さんの原点になる。それゆえ最晩年、歩くことや字を読むのもままならない状態になっても、彼は情況への発言をけっして怠らず、最後までそれを倫理として貫いた。請われれば自らの考えを開示しつ続けた姿勢は、容易にできるものではない。みごとというしかない。
 もうひとつは、小林が戦争を「宿命」と受容した姿勢を乗りこえる道を自力で切り拓くことを課題とした。戦時中、自分としてはよくよくものを考えているつもりだったはずなのに、どこかで間違えてしまった。社会の方からやってくる動きには、とてもたちうちできず振り回された。世界をつかむ方法をまったく手にしていなかった。方法をもたない文学者、知識人たちは何も語ってくれない。自力でそれを生みだすしかない、と。

 戦争を歴史の必然性、「宿命」と受けとめた小林秀雄の限界を超えていくことが、吉本さんの戦後の営為の原点にほかならない。凡百のプロレタリア文学者よりは小林秀雄を断然評価するものの、現実の解析へ向かわなかった点において、小林秀雄は「もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりにさえ、一歩ゆずらざるをえなかった」といいきる。
 敗戦後の小林に感じたもの足りなさを掘り下げ、厳しい批判を前面にうちだしている。ここで小林と分岐をなし、自立思想の営為を長年続けてきた。戦争、社会、国家、権力……、これらの解明に向かう。この一九六一年の小林秀雄論では、「僕は無智だから反省なぞしない」の言に感心したりすることはまったくなかった。

○「ダメだね」から一転して評価へNorinaga1

 以降も吉本さんは文学的に評価することはあっても、不満を漏らすほうが多かった。現に、七〇年代半ばに小林秀雄が『本居宣長』を発表したとき、批判の口調は六〇年代よりさらに厳しさを増した。小林の大著『本居宣長』にあるのは、「日本の学問、芸術がついにすわりよく落ち着いた果てにいつも陥いるあの普遍的な迷蒙の場所」だった、と。論理を軽蔑したあげくに、「原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路」の陥穽に小林秀雄もまた落ちていった、と。「小林の無意識の織りなす綾のうちに、営々たる、戦後の解放と営みを全否定しようとするモチーフが、あやしい光を曳いてゆくのをどうすることもできない」(「『本居宣長』を読む」一九七八年)。結局『本居宣長』は、戦後の思想的営為を全否定するものにすぎないではないか、と。こうも語っている。「小林秀雄の『本居宣長』をいっしょに読んでいて、つくづく読んでいていやになった、小林秀雄ってのはダメだねっておもいましたね。……。ダメっていうのは、要するに何もないですよね」(「伝統と現代」七八年五月号)。
 ところが晩年になると一転して、重心を移動させる。小林の敗戦後の姿勢をあえてとりあげ、評価するようになる。二〇世紀も末を迎えたころからだ。
 『私の「戦争論」』(一九九九年刊)では、「反省なぞしない」発言を「まっとうだと僕は思いました」ととりあげる。小林が戦前と戦後の姿勢を変えなかったこと、情勢の変化に応じていたずらに態度を変えなかったことを、むしろ改めて感心して強調するようになる。そういい始めるのは、ちょうど現在を「第二の敗戦期」ととらえるのと重なる。

○「第二の敗戦期」とする分析の視線

 第二の敗戦期とし、社会のとらえ直しを彼が迫られていたことをはっきり示すのが、二〇〇八年前後の著述だ。「この四、五年で、日本の「戦後」が終わり、新しく『第二の敗戦期』とも呼ぶべき段階に入ったのではないか」(『貧困と思想』二〇〇八年刊)と。
 なぜ、「第二の敗戦期」なのか。親の子殺し、子の親殺しなど、近親間の殺人や、「相談自殺」(集団自殺)などが目立つようになった。『蟹工船』がベストセラーになったように、新しい貧困が生まれ格差が拡大している。さらにはマルクスとエンゲルスの時代(産業革命期)の肺病に代わって、現代の「第二次産業革命」では「精神病」が蔓延してきたことも挙げる(同前)。底のほうで地殻変動が起きている過渡期にある、ととらえる。

 わたしが着目し極めて重要と思うのは、「第二の敗戦期」を分析するときの視線だ。コミュニケーション装置の急激な発達を挙げたあと、「東洋の美風とされてきた家族的、親族的な一体性がどんどん壊れていく」(同前)事態を指摘している。あるいは「ゆったりした農本的な生活の感覚は違和にさらされている」(『「情況への発言」全集成3』)と。
 「東洋の美風」「ゆったりした農本的な生活の感覚」という表現と、それらが解体されつつある事態に慨嘆を漏らしている。驚くべきことだ。なぜならこうした見方は、彼が八〇、九〇年代に、倫理的反動、停滞と罵倒してきたものと近似しているからだ。吉本さんが高度資本主義を「最高の達成」と評価し、さらに考察の歩を前に進めるときに、倫理主義の反動としてことごとく蹴散らしてきた言とほとんど重なってしまう。

○「アジア的」の両義性

 とくに、二〇〇八年刊の『「情況への発言」全集成』の「2」と「3」に付けられた「新書版のためのあとがき」は、彼の思想史をとらえなおすとき、たいへん重要な位置を占めている。心身の力はかなり衰えているはずの彼が、一部文意を読みとりにくいところもあるものの、振り絞るようにして紡ぎ出した言葉が綴られている。晩期の著述のほとんどは、語りを編集者がまとめたものだが、自ら執筆したと思わせる密度を感じさせる。優れた編集者の支えにも依っているのだろうが、晩年期の、核心を衝いた「情況への発言」である。

 数年前から日本が第二の敗戦期に入ったとし、次のように分析している。「これは如何なる徴候とみなすべきか。わたしはさしあたり、日本国のアジア的な固有値が急速にインド・ヨーロッパ型の人間関係の接触距離感に接近しつつあることを意味すると見做してきた。その変化も生活意識と産業の同一性さえあればよかったが、ゆったりした農本的な生活の感覚は違和にさらされている。世知辛さやこまやかな人間距離も産業の構造変化のはざまに追い込まれたが、どこへ脱けだせればいいのか判らない。日本国はそこに落ち込みつつある過渡的状態だと言える」(『「情況への発言」全集成3』)。

 八〇年代前半「試行」で「アジア的ということ」を七回にわたり連載したように、彼は「アジア的」にこだわり、これを両義的にとらえてきた。アジアでは農耕共同体のまま二千年以上のときが経過し、第二次産業の発展や歴史の進歩から外れていた、つまり停滞の地域だった。しかし、村落共同体の相互扶助や親和的人間関係が維持されてきたとも評価する。その論考は、近代的進歩史観にとらわれたレーニンを批判し、「アジア的」の両義性をしっかりとらえるマルクスを評価するかたちで展開された。
 (以下 (2)へ)

[2013年「流砂」6号に掲載]

※吉本隆明さんをめぐっては、拙著『村上春樹と小阪修平の1968年』(2009年刊)内のⅡ部内「マルクスと吉本隆明の先へ」、及び『吉本隆明と「二つの敗戦」』(2013年刊)で論じている。

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2015年11月 7日 (土)

『逝きし世の面影』

近代化によって滅んだ「文明」の姿を、異邦人の目を通じて探った名著。
ただ、「心性」と「特性」を切り分ける手法は、著者が狙う「近代の相対化」に力をもつだろうか――。

〇「錯覚ですら何かについての錯覚である」

Yukisiyonoomokage 著者の渡辺京二さんは書いている、「十八世紀初頭から十九世紀にかけて存続したわれわれの祖先の生活は、たしかに文明の名に値した」と。タイトルの「逝きし世」とは、その時代の文明を指す。その面影を、当時日本にやってきた異邦人(西欧人)の目に映った内容から描く。それが著者のとった手法だ。
 もちろん渡辺さんは、ザイードのオリエンタリズム(西欧的な基準からオリエントをとらえて評価すること)への批判を心得ているし、むしろ、いわゆる進歩主義者が西欧人の日本賛美を否定・無視する一方、日本人批判だけを引用して、近代的進歩主義を守ろうとすることに対して厳しい目を向けている。
 その上でこう考えた、異邦人はオリエンタリズムの眼鏡をかけていたかもしれないが、それでも彼らが見たことには根拠があるはずだ、と。仮にそれが錯覚だとしても「錯覚ですら何かについての錯覚である」として、たくさんの外国人訪日記を渉猟して、彼らが驚嘆した日本人の姿と生活を拾いだしている。
 自分のことは自分でみえにくい。その土地のよさはそこに住む人にはみえにくい。だから、異邦人が驚きをもって見いだした美点や欠点に耳傾けるのは必要なことだ、たとえ彼らの「錯覚」だったとしても。外国人訪日記からとりあげられた美点や特徴と、それを文明としてみる渡辺さんのまなざしには信頼を寄せることができるし、さまざまに教えられる。
 たとえば、日本人の「古いほほえみ」、貧しいはずなのに「民衆の生活のゆたかさ」、「日本人の清潔」、戸締まりをしない夜の町屋、働くときは必ず歌を口ずさむ労働者、満足感と幸福感を顔に浮かべる大衆、「アングロサクソン人よりも根底においては民主的」とみえる体制、東洋的デズポティズムとは遠い政治体制、「性を精神的な憧れや愛に昇華させる志向」の欠落、「未婚の娘たちの独特な魅力」、どんな他国よりも「自分の子どもに喜びをおぼえる人々」、「自然と親和する暮らしぶり」、西欧とちがい生まれつき美的感覚をもつ農民、「馬を人間並に扱う」習慣……。
 もちろん、「日本人の嘘」をはじめ、どうしようもない欠点にも触れてはいるが、異邦人にの目に日本が「楽園」と映ったたくさんのフレーズを、渡辺さんは次々に紹介している。

 では、渡辺さんはいったいなぜそんな作業を長年行ってきたのか。
 「私の関心は日本論や日本人論にはない。ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味がない」という。「私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない」。「私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある」と強調する。「私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある」。
 彼が追求したかったのは、異邦人たちが「夢のように美しい国」と評したかつての日本を解体させた「近代」の意味を問うことにあった。
 このことについて、後年書いている、「現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかった」、「古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった」(平凡社ライブラリー版「あとがき」)と。あるいは、こう書いている、「私は、近代・現代と比較して江戸時代の方が良かった、と書いたつもりは毛頭ありません。新しい文明・文化が興るとき、それは必ず古きよきものを棄ててゆくという時事を、当時日本に居た外国人の眼を通して描いたにすぎません」(『無名の人生』2014年)。「夢のように美しい国」の文明を放逐したのは「近代」である。「近代」、そしてその果てとしてある「現代」を相対化してみたかった。それが『逝きし世の面影』を執筆した背景に流れていた思いとなる。

〇「文化と文明」「特性と心性」の峻別

 近現代を相対化してみたい――それは私自身迫られた切実な課題でもある。だから、『逝きし世の面影』が果たした役割は十分に評価したい。これまで人々には見えにくかった江戸期の人たちと社会の姿を異邦人の目を通じて、たとえ「錯覚」であったとしても明らかにしたのだから。
 そのうえで、二、三の点について論じてみたい。
 まず、渡辺さんは「文明」と「文化」を峻別する。
 文明とは「歴史的個性としての生活総体のありよう」をいう。「ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ、独自の社会構造と習慣と生活様式を具現化し、それらのありかたが自然や生きものとの関係にも及ぶような、そして食器から装身具・玩具にいたる特有の器具類に反映されるような、そういう生活総体」が文明である。あるいは、「混沌たる世界にひとつの意味ある枠組を与える作用」、これを文明と呼んでいる。
 そして、江戸期に培われたその文明が滅んでしまった。
 これにたいして、「文化」は滅びはしない。たとえば茶の湯や生け花は残されているし、お稲荷さんは高層ビルの上に残されているが、それらは「寄せ木細工」の一部分として残存しているにすぎない。文化とは形式として残されうるものかもしれないが、文明とは生活総体、そして世界観総体と一体化したものだということになる。だから、「文化は生きるが、文明は死ぬ」。
 そしてこの区分けに、彼は「民族の心性」と「民族の特性」を重ねている。つまり、民族の心性とは文明が、民族の特性とは文化がつなげられる。
 だから、「文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない」。滅びるのは「文明」であり、「民族の心性」である。Kouyoutosanmon

 渡辺さんは「文化」と「文明」を峻別したように、「民族の特性」と「民族の心性」をはっきり分ける。日本の「国民の性格」は時を経ても少しも変わらない、とみるチェンバレンを承けて、渡辺さんはチェンバレンが挙げた「特性」の例を列記している。「知的訓練を従順に受けいれる習性や、国家と君主に対する忠誠心や、付和雷同を常とする集団行動癖や、さらには『外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向』」などである。一六世紀末あたりから幕末までに変わらないこうした特性を前にして、渡辺さんは「ひとつの国民的特性なるものがどんなに変わりにくく長い持続力をもつか、しばし呆然たらざるをえない」としている。「残念なことにその特性は当分滅びようがないのである」とうんざりしている。だから「問題は日本人の民族的特性にあるのではない」。異邦人が驚きをもってみた当時の「古い日本」の「心性」が滅んでしまったことをこそ嘆いている。

〇「残念なことに」滅びない「特性」

 しかし、特性と心性とは、「一見わかちがたく絡みあっているにせよ、本来は別ものである」と断言できるのだろうか。
 チェンバレンが見いだし、渡辺さんが追認した日本の「国民的特性」をもう一度、書いてみる。「知的訓練を従順に受けいれる習性や、国家と君主に対する忠誠心や、付和雷同を常とする集団行動癖や、さらには『外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向』」。おおむね当たっている。この「国民的特性」を二人は否定的に受け止めている。私も同意する。
 しかし、特性と心性が「本来は別ものである」とは、いったいどのような根拠からいいうるのだろうか。そのように断定できるだろうか。このあたりの根拠に、著者が直接触れているようにはみえない。
 彼が根拠づけたい周辺の言葉を探して、組み立ててみよう。
 「人間は自然=世界をかならずひとつの意味あるコスモスとして、人間化して生きるのである。そして、混沌たる世界にひとつの意味ある枠組を与える作用をこそ、われわれは文明と呼ぶ」。つまり、人間は「無意味な世界」に「意味あるコスモス」を再構成する。この作用が「文明」であり、それを生み出すのが「心性」であり、また「文明」が心性を育む。それは、どうしようもない国民的「特性」とは異なる。
 「特性」と「心性」の関係に直接的な言及をしていない渡辺さんの論の先を私が付け足せば、日本人は変わらない民族的「特性」をもつものの、それとは別に時代や社会状況のもとで、その時代固有の「心性」を生みだす。そのひとつが「十八世紀初頭から十九世紀にかけて存続したわれわれの祖先の生活」であり、「文明」の名に値するものだった。そのように、特性と心性の関係を分けてみたかったのだろう。

 だが、著者が分けた「特性」と「心性」は、「本来は別もの」なのではなく、同じ実体(便宜的に「実体」というが、それは実体ではなく心の価値交換のかたち)の表れ方の違いにすぎないのではないか。
 「特性」と「心性」を分けがたい一例を挙げてみよう。Valignani
 イエズス会の巡察師としてアレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本にやってきたのは、一六世紀後半のこと。一八世紀初頭から一九世紀にかけての「文明」をとりあげた『逝きし世の面影』では、範囲外の時期なので、ヴァリニャーノの書は当然採りあげられていない。ヴァリニャーノが残した『日本要録』をみると、日本人の家屋が「はなはだ清潔」であり、屋内も「極めて清潔」と書かれている。『逝きし世の面影』で、一八世紀初頭から一九世紀の「文明」「心性」の例として採りあげられた「日本人の清潔」ぶりには、その二世紀前にも異邦人を驚させていた。そしてまた、今日でもそれをうかがうことができる。すると、「日本人の清潔」は、うんざりするほど変わらない民族の「特性」に入れるほうだ妥当だ。(特性とは、世界観・存在観から生まれ滲み出てくるものにほかならない) ※写真はヴァリニャーノ(桃源社版『日本巡察記』)

 チェンバレンが、そして渡辺さんが挙げる「特性」とは、「性癖」のようなものだ。従順な習性、付和雷同の集団行動癖……。こうした「性癖」と「心性」は、同じものが発現する次元によって異なる貌を表す相違にほかならない。自然をとらえる世界観が「自然と親和する暮らしぶり」と映り、それが共同観念的次元では「国家と君主に対する忠誠心」や「集団行動癖」とつながる。前者を渡辺さんは「心性」とし、後者を「民族的特性」と切り分けたのにすぎない。四季の変化の中での「自然と親和する暮らしぶり」は「付和雷同」や「集団行動癖」と相関し、「日本の農民の美的感覚」の素晴らしさは、自然の生成を受け止めて「従順に受けいれる習性」と相関しているはずだ。私の言葉でいえば、それは「心的価値の交換」の発現次元の違いにほかならない。

 探るべきは、特性(性癖)であれ、心性であれ、それが生み出され、紡ぎだされる根(としての根底的な心の価値交換)ではないか。特性も心性も、自然、風土との交流を基礎に育まれてきたものなのだから。
 渡辺さんが発想するように、「特性」と「心性」を便宜的には分けられる。しかし、その心性を発現させるもととなる変わらない「特性」自体に光を当ててみなければ、渡辺さんの狙う近代の相対化作業になかなか入れないのではないか。

〇峻別と「矛盾の統一」

 「民族的特性」とは、いったいどこからやってくるのか。
 政治学者の丸山眞男は、日本文化の古層について論じてきた。ある講演で彼は、幕末明治以来書かれた異邦人の日本観をみると、ふたつの正反対の見方があるという。ひとつは「日本ぐらいいつも最新流行の文化を追い求めて変化を好む国はないという見方」であり、もうひとつは「日本ほど頑強に自分の生活様式や宗教意識(あるいは非宗教意識)を変えない国民はない」。それをうまい表現で丸山さんは言い換えている、「私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」と(「原型・固執・執拗低音」)。
 そういう変わらない低音の音型を、「パッソ・オスティナート」(執拗に繰りかえされる低音音型)と丸山さんは呼んでいる。このように、外来文化の影響を圧倒的に受け、他方では「日本的なもの」を執拗に残存させてきた。この「矛盾の統一」として日本思想史をとらえた。
 パッソ・オスティナートを渡辺さん流にいいかえると、変わることなき「日本的特性」であり、鎖国して育まれたのが「幸福と安息の相貌を示す」文明(心性)だった。
 渡辺さんがその消滅を詠嘆した「文明」もまた、特性(つまりパッソ・オスティナート)を土台にしてしか生まれなかった、とみるほうが妥当だろう。
 「ひとつの国民的特性なるものがどんなに変わりにくく長い持続力をもつか、しばし呆然たらざるをえない」と渡辺さんは書いたあと、つづけて「だから問題は日本人の民族的特性にあるのではない」としたのだが、逆に、だからこそ「日本人の民族的特性」の内実とそれを形成させた力を問いたい。近代を相対化する手がかりをそこからつかむことができるかもしれない。

〇「なりゆきのままに」を生みだす土壌

 丸山さんは、日本思想史の底流にパッソ・オスティナートを見いだし、その思考様式を、宇宙発生神話をふくむ民族神話の比較で探ろうとした(『歴史意識の古層』)。
 彼は世界の神話を「つくる」「うむ」「なる」の動詞からとらえる。「つくる」は一神教的な世界創成であり、他方日本では世界が「なる」という発想をとり、「確たる理念や価値判断」を伴わない「なりゆきのままに」という姿勢を生む。だから日本では、近代的主体が確立されにくいことを指摘している。
 それは、渡辺さんが指摘する特性とほぼ重なる。つまり「知的訓練を従順に受けいれる習性や、国家と君主に対する忠誠心や、付和雷同を常とする集団行動癖」や、「外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向」。主体性を欠いた「なりゆきのままに」だ。

 とするなら、こうした理念や価値判断ぬきの「なりゆきのままに」や、従順な習性や付和雷同、外国の模倣といった特性が、いったいどうして変わりなく続いているのか。むしろ、そこにこそ私たちは目を向けるべきではないか。
 丸山さんは創成神話に辿り着いた。

〇西欧と正反対の存在観Kouyou_daitokuji

 私はさらに歩を進めざるをえない。結局、存在観(西欧哲学でいえば、存在
論)の領域へ踏み入る。渡辺さんのいう「民族的特性」、丸山さんのいう「古層」、「パッソ・オスティナート」を奏でる源となる存在観の問題に行き着かざるをえない。いったい事物が「存在」しているとはどういうことなのか。生物がいまここにある、「生きてある」とはどういうことなのか、と。
 一神教的な世界では、絶対神が万物をつくった。存在するものは、神の被造物である。神の姿に似せられた人間は、他の生物、自然とは異なる特別の位置を与えられ、人間は自然を道具として利用することを神から許されている。
 しかし、日本列島では、存在は絶対的主体が「つくった」ものではない。制作・造形したものではない。それは「おのずから」の自然、生成としてある。人間も、その他の自然と同じだ。その生成は人間に対して厳しく対することもしばしばだが、基本としては生きる環境や喜び、美を提供してくれている。自然、存在するものは恵みであり、「かたじけない」し、「ありがたい」と感応する。万物に生かされているのだから、感謝の念をもって受けとめる。他方ではそれが「負い」をも生み出す。(こうした世界観・存在観をもつ地域は、おそらく「日本列島」にとどまらず、東南アジアやオセアニアなどの他地域の中にもみられるにちがいない)

 しかし、一神教的世界では、近代になって神なきあと(神を後景におしやったあと)、人間様が神の座についた。近代が掲げる「自由」とは、自分の意志が他のなにもの(他人からであれ、自然からであれ)にも縛られず、動かされずに、行動や判断の原因を自らの中にもつことにある。自らが全的な主体とならなければならない。それは全てを自分化することでもある。自然に左右されてはならない。これを把握して制服することにこそ「自由」を見いだす。自然とは征服する対象であり、道具・手段でしかない。
 列島と西欧では、存在観(世界観)の成り立ちの根本から異なる。

〇近代的主体を確立できない「強み」

 それでも開国以降、列島の人々は必死で近代化、西欧化を進めてきた。置かれた国際的諸関係の中で、やむをえなかった。
 そうして、一世紀半ほどが経つ。「近代化」を達成したものの、列島ではこの西欧的世界観(存在観)をしっかり確立できたとはいいがたい。近代的主体を確立できてはいない。渡辺さんがうんざりするように「特性」は容易には消えない。すると私たちの中の近代主義は、これを「遅れ」、「弱さ」、ダメなところとみなし、さらなる近代化(自我の確立と肥大化)を促してきた。
 しかし今日、見方を逆転させるべきではないだろうか。近代の基礎となる近代的主観(自我)を確立できずにいる列島的世界観に、逆に光をあててみるべきではないか。そこにこそ近代を相対化できる視点を見いだせるのではないか。なぜなら近代化を推進してきた近代的主体と、その世界観を欠いているのだから。

 結局、列島の心性は近代的な自我の確立が苦手なのだ。それが不得手というのは、近代の基礎を形成する一神教的な世界観を心の底からはもちえないことを表している。そして近代的自我を確立するのが不得意な日本列島の心性こそ、じつは近現代を相対化し、以降の道を示唆してくれる可能性を有していることになる。

 たしかに、渡辺さんが『逝きし世の面影』でみごとに描き出したような「幸福と安息の相貌を示す」江戸中後期から明治はじめにかけて存在した「文明」は「滅び去った」。けれども、それを生み出す土台となり、あるいは表裏一体としてあった「特性」、「パッソ・オスティナート」は、渡辺さんも認識するように、今日にいたるもそうやすやすとは崩れていない。渡辺さんが問題の外に置いた「特性」が「逝きし世」を生みだしたのだし、これを生みだすことになる存在観(心的価値交換)こそ、近代西欧的世界観を相対化し、「近代以降」を構想する力をもつのではないだろうか。

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2015年10月29日 (木)

山本義隆『私の1960年代』



~「近代」という時代の相対化作業~

Yamamotoyositaka_3 60年安保闘争から10年間ほどの1960年代の運動について、自伝手法も交
えながら書かれている。
 山本義隆さんが紹介されるときは東大全共闘代表と肩書きが必ず付けられるくらいだから、「1960年代」とあれば、60年代後半の東大闘争、とりわけ東大闘争の象徴とされることの多い1969年初頭の東大安田講堂の攻防戦に目が向きがちだが、本書はむしろ、そこにいたる歴史的な大きな流れ、背景が個人史とからめて辿られている。
 安田講堂「解放維持」(籠城)決戦の直前に自らが外へ出ざるをえなかった経緯、それを今振り返っての想い、闘争が後退局面に入ってからのこと、糊口をしのぐための仕事、闘争資料の収集保管・公開、さらに科学思想史分野執筆のことなどにも触れている。
 面白いエピソードもたしかに語られているが、結局本書から私がくみとりたいのは、当時の運動が、日本「近代」社会と、そこでの科学、技術のあり方への異議申し立てとしてあったこと。大学での知とそれを担う人のあり方、そして彼の専門分野である科学思想史からみた近代科学と技術の問題に尽きる。
 前者の問題は、著者にとって戦後民主主義を問うことでもあった。

〇丸山眞男への姿勢の変化

 前者を考える一例として、当時東大教授だった政治学者丸山眞男さんが挙げられる。
 山本さんは、「正直に言って私は、68年の東大闘争の期間中、丸山眞男が東大当局にたいして何か言うかと思って注目していたのですが、彼は何も言いませんでした」。そのあと、丸山は「法学部教授」の肩書きを付けて、全共闘の「大衆団交」を「理性の府としての大学にあるまじきこと」と批判した。これに対して山本さんは「私はその時、丸山眞男は外に言っていることと学内でやっていることが違うじゃないかというのが一番の印象でした」と振り返っている。
 私なりの補足すれば、たしかに丸山さんは『日本の思想』(1961年)で、「自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる」、「債権は行使することによって債権でありうる」、「『である』社会から『する社会』組織へ」を謳い、それを「永久革命」と呼んでいた。ところが、現実の場面(東大紛争・闘争)の場ではどうだったのか。丸山さんは教授の特権(教授「である」)に甘んじ、いや、その特権を行使して、学生たちの不当処分反対の運動を圧殺した、と(当時このあたりの大学教授たちの「特権性」批判も含め、大学闘争について、党派主義的・倫理主義的でなく、歴史的・思想的な視点からまっとうな擁護(と批判)を加えたのは、吉本隆明くらいではなかったろうか(『情況』1970年刊所収「収拾の論理」ほか)。
 ただ、今日の山本さんには、丸山批判をめぐり少し姿勢の変化がみられる。丸山自身の発言「理念と運動としての民主主義は、何十年も前にいったことをくりかえすのは気がひけるけれども、〝永久革命〟なんですね」(1989年)を引用して、次のように書いている、「率直に言って現在の私は、丸山の民主主義のこの見方にかなり共感を覚えます」と。かつての丸山批判を堅持するものの、「現在の私は、丸山批判のようなものをあまり正面に出したくない気分でいます。というのも、今ではむしろ、権力の側からの、そして歴史修正主義者の側からの戦後民主主義批判が、きわめて粗雑な、ときには幼稚な言葉で氾濫しているからです」。
 社会情勢の著しい変化がこうした感慨を山本さんにもたらした。

〇大学闘争と近代の科学

 もうひとつは後者、近代科学の問題で、むしろこちらが本書の主題になっている。山本さんの論をざっと辿ってみる。
 もともと西欧では科学と技術が別ものであったのが、紆余曲折を経て、19世紀中期に「科学に基礎づけられた技術、あるいは科学から生み出された技術としての『科学技術』」が西欧に誕生する。
 西欧で「科学技術」が誕生したちょうどその頃に、日本では近代化が始まる。その「絶妙なタイミング」で西欧の科学と技術に遭遇したことが、日本の産業的な近代化を「成功」させた原因のひとつだ。ただし、「欧米では政治的近代化(市民革命)が経済的近代会(産業革命)に先行していたのですが、日本では市民革命による民主化を経ることなく、いきなり産業革命に向かったのであり、そのため『上から』の技術的・産業的近代化にならざるをえなかった」。
 それゆえ、「日本の科学は、基礎科学であると応用科学であるとを問わず、政治と経済と軍事、すなわち国威発揚と生産力の増大そして軍事力の強化を基本的な目的としていた」。その中心的役割を果たしたのが、東京大学(の工学部・理学部)で、太平洋戦争でも帝国大学、とくに東大の果たした役割は大きかった。もてはやされる「工学部や理学部の教授や研究者たちにとって、戦争中はわが世の春だった」。
 ところが、敗戦を迎えると、文学者や文系の学者は責任を問われることがあっても、理科系の学者たちは、戦後になってもそれ以前とまったく同じように今度は「近代文化国家・民主主義国家」建設の担い手として「胸をはって科学賛歌を歌い続けることができた」。戦争中の「わが世の春」を戦後も変わらずに謳歌した。
 だから、大学の個々の組織や制度、運営をめぐり議論や対立が生まれたとき、戦前・戦中・戦後を通じて不問に付されてきた科学のありかた、大学の制度、学者のあり方にまで、学生たちの問いかけが広がるのは避けがたかった。結局、「私たちの議論は、科学や技術そのものにたいする批判に進んでゆきました」となるのは、ラディカルであれば必然だった。

〇科学と技術の限界

 物理学と化学の理論の作られ方の核心について、山本さんは次のように書いている。

さまざまな要因が複雑に絡み合っている現実の自然の中から着目する対象を「系(システム)」として取り出し、そのまわりの世界つまり「環境」あるいは「外界」とみなされる世界からその「系」を切り離し、その孤立した対象としての「系」を人為的にコントロールして、本来の自然環境ではあり得ない理想的な状況を強制的に作り出します。そして、その状況下に出現する現象にたいして、それを規定する要因をわずかな数のパラメータで数量化し、その関係を法則化するのが科学、とりわけ物理学の原理論なのです。

 これはハイデガーが科学をとらえるときのものとほぼ同じだ。ハイデガーは『技術論』でこう書いている。

 この自然科学なるものは、自然現象があらかじめ算定できるものだということを、確保するような知識を追求するものです。ここではただ、あらかじめ算定できるものだけが、存在するものだと見做されています。理論物理学で行われているような自然の数学的見取図や、それに則った実験による自然への照合というものは、一定のきめられた観点から自然の返答を求めます。ここでは、自然は、算定しうる対象という性格において姿を現すように、挑発されているのです。つまり自然は、そういう場に立たされるのです。
 (ハイデガー『技術論』小島威彦訳)

 山本さんは科学思想史から、ハイデガーは哲学(形而上学)史から、ほぼ同じことを語っている。こうした科学を成立させ、確信させる根拠となったが、デカルト的な近代主観にほかならない。近代的な絶対自我の確立こそ、「近代」の奢りを生み、近代の病いをもたらすことになる。

〇原発は「パラドキシカルな存在」

 山本さんは書いている。「物理学の基本法則は、このようにそのままの自然にはありえない人為的に理想化した状態、つまり現象の本質的な部分のみを浮かび上がらせるために、環境との相互作用、環境との物質やエネルギーや運動量のやりとりを遮断し、自然過程から非本質的要因と判断される要素を除去した状態での現象の法則として作られたもの」だ。「しかし物理や化学の原理論の形成と、その技術的・産業的応用は相当異なる」。なぜなら、「環境との物質やエネルギーのやりとりをもふくむ相互作用や、装置における摩擦や金属疲労等による素材の脆化による事故や人間的要因によるミスなどの、原理論の実験過程では捨象され無視されていた要素や要因が避けられない」からだ。「そしてそれらの問題は、通常は事後的・経験的にしか明らかになりません」。「原理主義的な科学とのその技術的・産業的応用までの距離、化学理論から合成化学工業までの距離は、ずっと大きくなっています」。
 そして、「原子炉」となると、「個々の要素や部分についてはともかく、全体としての安全性については、近代科学の前提である実験的検証を受け付けない」。それゆえ「原子炉は、ひとたび事故を起こせばその影響があまりにも大きいために、事故防止装置の実効性を実証することができないというパラドキシカルな存在」である。それは、「ウランの採掘から定期点検にいたるまで被曝労働を必要とする未熟な技術」であり、「環境を汚染し、そして放射性物質を残す不完全な技術」でしかない。かつてそのことに思いが及ばなかったことは措くとして、福島第一原発事故後はいいわけできないはずだ。

 近代に入り、今日まで支配してきた思考は、人間(近代的主観)は「世界」を把握できる主体であり、その知は進歩するというものだ。それをちょっとの失敗や間違いで立ち止まるのは、人類の進歩への敵対だ、という近代論理がまかり通ってきたし、驚くべきことに福島の事故後も変わらない。
 西欧近代では、神に代わって人間が絶対者(神)の座を確保した。人間が立てた「世界」という対象は、人間が把握し統御・制御できるもの。もしそこに把握・統御できないこと(予期・想定できないこと)が起これば、それを克服すべく認識と科学、技術を高めればよい。前進させるのが人間の尊厳だ。こういう近代主義をいまだに手放せない人々が政治や経済の実権を握っている。

〇「近代」の基盤を問う

 山本さんは、補注に収められた2005年に書かれた友人の追悼文で次のように記している(友人とは、東大闘争をともに担い、その後在野で活躍してきた人物)。
 「しかし、率直に言うと、私は近代科学や戦後民主主義を、その否定的な側面を重々承知してはいても、しかしだからといって、それほど簡単に無造作に全否定する気にはならない。その点は彼も同じように考えていたのではないかと思われる。彼も大学アカデミズムに背を向けてはいたが、しかしエンジニアとして八十年代以降の日本の情報技術の発展を見据えてきた」。(「鈴木優一君を悼む」2005年)
 これは、60年代末の丸山眞男を批判しつつも、彼の「永久革命」論に今も共感を覚えることとつながっているようにみえる。

 思うに、1960年代日本の若者たちが掲げた反旗には、二つの主張が込められていた。ひとつは「近代化(自由、平等)が不徹底であること」への批判であり、もうひとつは「近代化そのもの」への批判だった。相反する志向性が混然として渦巻いていた。
 そして今日問われるのは、近代のさらなる推進か、あるいは反近代かという二項対立の図式からまず離れることにある。
 近代の否定ではない、昔へ戻ることではなく、近代を相対化することだ。それは人間という近代的主観の相対化、近代科学の相対化であり、たかだかのツールでしかない近代経済の相対化である。
 自分を相対化できない近代思想と科学、経済のシステムは進路を失いつつある。いったいどこに限界が潜んでいるのか。主体・自我に絶対性を置く世界観だ。デカルト、ガリレオから始まる近代的主観に基づく世界観だ。世界を対象として把握でき、支配・制御できる、とする絶対主観主義だ。まだ把握・制御できないことがあるとすれば、それは人間の不十分性であり、努力すれば必ず全体を掌握でき、人類の幸福につながると確信するのが西欧近代的思考。それはおおむね「ヒューマニズム」と重なる。
 けれども、それは看過できない奢りで支えられている。いったい「主体」は自らがつくったものなのか。自らが自分という主体を生んだのか、つくったのか。生きるための大地、水、雨、海、川、植物、動物、環境は、人間様がゼロからつくりあげたものなのか。キリスト教では、神の被造物とされ人間に与えられ、手段とすることが許された「自然」が、神が後退する(あるいは神を殺す)近代に入ると、人間がこれを全面的に支配する座を占める。

 本書で山本さんは懐かしい人物について触れていた。1970年前後に彼が往復書簡を雑誌上に公開していた相手、滝沢克己。カール・バルト研究などで知られ、69年前後に九州大学の教授で文学部長を務めていた。その滝沢さんの言葉を補注の中で引用している。「人間的主体成立の根底には、人間的主体のあるはたらきに先立」つ力、決定がある。滝沢さんはキリスト教信徒ゆえ、それを「絶対無条件に、一つの聖なる決定」とし、人間という主体はこれに直属する、とした。
 ただ日本列島的な心情は、これをあえて名指さずに「かたじけない」「ありがたい」心情として受けとめていた。絶対の措定をできないからだ。こうした心情が、西欧近代の世界観・宗教観で「多神教」や「アニミズム」として排除されるのは当然のことだ。日本列島的存在観では、西欧的な自我・主体を確立しにくい。いまだに西欧近代的思考に不慣れだ。ゆえに、丸山さんが言葉を強めたように、「である」ではなく、主体的に「する」ように自覚することが求められ、その声を否定はできない。
 ただ、今はその主体の前提を問い直し、近代的思考の場から一段降りてみる。そういう相対化作業は、幸いにして日本列島の思考にはなじみやすい。「絶対の主観」を立てるのが苦手だから。そして、それは強みに転じられるかもしれない。

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2015年8月20日 (木)

『遊動論』について  

~祖霊信仰と心の価値交換~

 

○「山人」の存在

 一年ほど前に買ったものの、脇に積んであった柄谷行人さんの『遊動論』を読む。新書版なのでとっつきやすい。

 『世界史の構造』(2010年刊)が「交換様式」から世界史の構造をとらえたのに対し、『遊動論』(2014年刊)は同じく交換様式から柳田国男論を通じて歴史の構造に迫ったものといえる。近年、生産様式ではなく交換様式から世界史(の構造)をとらえる著者が柳田の固有信仰の中に、あるべき交換様式(交換様式D)を見いだそうとしている。

 本書のあとがきに柄谷さんは記している。若いころに柳田国男論を書いたものの、その後柳田について考えることがほとんどなかったが、3.11後に改めて読んだ「先祖の話」などに触発される中で本書が生まれたものだ、と。

 著者は、一九七〇年代から八〇年代にかけて見られるようになった柳田国男評価に対して異議をもつ。その社会的評価とは、柳田国男が初期には山人や漂白民、被差別民などを論じていたが、後期にはそこから離れ、「常民」(定住農民)を対象とするようになり、「一国民俗学」を唱えるようになった、という批判だ。しかし、そうとらえるのは、柳田を見る側自身が移動しているからであって、柳田自身は「山人の存在や、山人的な遊動性を一度も否定していない」と、著者は強調する。

○祖霊と生者の関係
 

 柄谷さんは、次のようにみる。
 農商務省にいた柳田の農業政策は、「農家が国家に依存せず、『共同自助』を図る」もYudohron1_2ので、それはいわば協同組合だった。柳田がいう日本人の固有信仰は稲作農民の社会では痕跡しか残されていない。祖霊信仰(氏神信仰)はむしろ稲作農民以前のものであり、それは「最古の形態であるとともに、未来的なもの」であって、そこに「交換様式D」を見いだせる、と。(ちなみに、交換様式Aは互酬(贈与とお返し)、Bは略取と再分配、Cは商品交換。そしてDは、「交換様式Bがもたらす国家を否定するだけでなく、交換様式Cの中で生じる階級分裂を越え、いわば、交換様式Aを高次元で回復するもの」とされる)

 本書名となっている「遊動」性とは、「資本=ネーション=国家を越える手がかり」となるものであり、定住しない民に見いだすことができる。ただし、注意したいのは、それが遊牧民ではなく、狩猟採集民においてこそみられ、「定住以前にあった遊動性を真に回復するもの」である。

 柳田が示した日本人の固有信仰(祖霊信仰)における祖霊と生者の関係は互酬的ではなく、「いわば愛にもとづく関係」であって、それこそが交換様式Dにほかならない――。

 このように柄谷さんはとらえ、今日における柳田国男の固有信仰の可能性を示そうとした。

 柳田国男の祖霊信仰に交換様式D(純粋贈与)の世界をみるという、なかなか刺激的な内容だ。

 交換様式Aの互酬性(贈与とお返し)は定住以後のものであり、一方の純粋贈与である交換様式Dは定住以前のもの。定住することで蓄積ができるようになると、互酬(贈与とお返し)が可能になる。しかし、遊動的であるゆえに蓄積ができない定住以前の狩猟採集社会では、収穫物は全員で均等に分ける。これは「互酬」(贈与とお返し)ではない、つまり「純粋贈与」である、と著者はいう。

 

○「純粋贈与」への疑問

 

 しかし、「純粋贈与」という言葉の前で、私は立ち止まり考えることになる。

 共同寄託が純粋贈与といえるのだろうか、という疑問がまず湧くのだが、もっと大きな疑問は、「純粋贈与」という概念自体と、それへの著者のこだわりに対してである。

 柳田の固有信仰の核心は「祖霊と生者の相互的信頼にある」としたうえで、柄谷さんはそこに「互酬的な関係ではなく、いわば愛にもとづく関係」をみている。若いマルクスが「君は愛をただ愛とだけ」交換できると謳いあげた世界と響きあうものだ。

 ただ、そもそも「純粋贈与」という概念は、西欧近代的な思考から発想されたものではないだろうか。そこでは、贈与を「純粋」に行う「主体」が前提とされている。見返り、お返しを期待する互酬的な関係ではなく、「愛にもとづく関係」における見返りなど求めない贈与を「純粋」とし、そこに著者は最高の価値を置いているのだが、これ自体、とてもカント的である。

 贈与をめぐる西欧的な知の躓き(たとえばカントやジョルジュ・バタイユの例)については、かつてスローワーク論に書いたことがある。
 

○自分の根拠を自分に求める西欧的知

 

 「純粋贈与」という概念が近代西欧的である、とはどういうことか。

 第一に、「純粋」に贈与する「主体」が立てられている。それはデカルトが確立した近代的主観(基体)である。デカルトが「私は考える。ゆえにある」を成立させたとき、彼の確信は絶対神に依拠していたが、のちにこれを承けた西欧近代思想は神を後景に追いやり、文字通り「絶対の主観」を確立した。カントこそ、その典型として挙げられる。

 柄谷さんは『世界史の構造』で、「カントが普遍的な道徳法則として見出したのは、まさに自由の相互性(互酬性)なのである。それこそ交換様式Dである」と書いていた。それは全き自由な主体の世界であり、他の不純物の混じらない(見返りを求めない)純粋贈与の世界だ。見返りを求めない、あるいは不純な利害に左右されない、自立した主体からの贈与に価値が置かれる。

 思いとしては美しいが、この発想自体が西欧近代的発想に属する。デカルトにしてもカントにしてもヘーゲルにしても、西欧近代の哲学者は、人格が身体を所有し支配することを前提としている。自己を根拠づけるのはほかならぬ自分(自我、人格、理性)であって、それ以外に求めてはならない。それ以外に求めることを振り払わなければならない。

 身内の西欧近代的思考の限界を批判したジョルジュ・バタイユは内部からの破壊を試みて、純粋贈与の問題を考え抜いたけれど、結局自爆に終わった。それでも、バタイユの誠実さは賞賛に値する。

 こうした西欧近代の主観、人格の成りたち自体に潜む傲慢に気づき、その思考の異様さを照らし出した人として、ハイデガーを挙げることができる。彼は西欧的主観、主体の傲慢に警鐘を鳴らし続けた。私たちが「存在してあること」は与えられたものでしかない。それを彼は、たとえば存在の「負い」、「責めあり」と呼んだ。

 とすれば、主体による「純粋贈与」とは浮き世離れした概念としか思えない。

Sea5_2 人間は、そもそも誕生からして自分以外に存在を負っている。自己が自己を生んだのではない。いいかえれば「贈与されている」と受けとめるほかない。その上での主体、主観、人格、理性にすぎない。絶対的な贈与を負った土俵の上で、足元の土俵については触れずに、「純粋贈与」する主体が考えられているにすぎない。たしかにこれまで柄谷さんは「外部」や「他者」について目を向けてきたけれども、それは存在論的な次元に降りて語られていたようにはみえない。


○「純粋」という西欧近代的病い


 西欧近代思想では、自己は自己に依拠しなければならないとする自存の図の強化こそ、「自由」「進歩」とみなしてきた。自己(自我、主観、人格)が他のいかなるものにも規定されない(邪魔されない)ところに、「自由」を見いだそうとしてきた。カントの「自由」「道徳」はその典型だ。それは、「自分を世界化」することであり、「世界を自分化」すること。自己は自己に依拠しなければならないという論理は、自己を拡張させ、とうとう今日の地球規模的な「限界」を露わにした。それは「絶対主観」の限界をもあわせて示している。西欧近代的思考こそ、今もっとも問われるべきことである。

 「純粋贈与」という言葉は美しく響くのだが、贈与の主体を純粋化する思考は、よくよく考えてみると西欧近代的病いが生んだ概念ではないか。

 「純粋贈与」の世界とは、根底的な存在論(存在観)を欠いた近代西欧的な知が渇望してきたものであって、柳田国男の祖霊信仰の世界とは次元を異にする。もう少し広げて言えば、日本列島において「生きてある(存在してある)」ことを「かたじけない」と日々受けとめる世界観とは、まったく異なるものといわざるをえない。

 著者は、純粋贈与の世界、交換様式Dの世界への希求は、(交換様式B、Cで貫かれた)今日の社会が自ずから要請するものだという。それは肯ける。しかし、西欧近代的思考が行き詰まった今、絶対主観の世界から一度降りてみる、存在論の世界に降りることが求められている。そして日本列島では、もともと西欧近代的思考とは別の世界観を生きてきたことに、今思いを馳せるべきではないだろうか。


○「負い」から始まる列島の存在観

 たとえば本居宣長は「もののあはれ」を語った。「文化人」や「粋人」が抱く特権的な美意識と誤解されがちだが、そんな偏狭なものではない。いのちを自然に負っている生きとし生けるものは、みな情(こころ)をもっていて、ほかのものに触れて必ず心を動かされる。ものに感じるとは心を動かすことであり、うれしい、かなしいなど喜怒哀楽を深く味わい思うことが「あはれ」である。

 「あはれ」とは心を動かしあう(心の価値を交換しあう)ことだが、その基礎になっているのが、いのちを自然に負っているという世界観(存在観)だ。「いま・ここ」にあること自体が存在を規定されていることで、それこそが基底的な贈与としてある。こうした受感はなにも宣長に特別なものではなく、むしろ日本列島の生活者がつねにしみじみ抱いてきた存在観であり、心情でもある。人格が身体を支配するとし、他の何ものにも支配されないと欲するカント的・近代西欧的な世界観とは相容れない。しかも「もののあはれ」はすでに喪われた心情ではない。なぜなら、「いま・ここ」にある(投げだされている)という存在論的世界観から湧き出してくるものなのだから。

 もちろん、日本列島におけるこうした存在観は、さまざまな負性を抱えている。そのことに私たちはつねに自覚的でなければならないが、まずはそこに降りることから始まるのではないだろうか。

 

 そして、問いは「交換様式」の問題に広がりそうだ。

 柄谷さんは『世界史の構造』のはじめで、経済的下部構造を生産様式という観点から見ているかぎり、そこに「道徳的契機」を見いだすことができないが、広義の交換という観点からみれば、道徳性が交換様式の中に含まれると、交換様式から世界史をとらえることを提唱した。その試みには教えられるところが大である。

 しかし私見では、「生産」でも「消費」でも、心的な価値の交換が必ず伴われている。つまり、柄谷さんのいう「道徳的契機」は「生産」にも「消費」にも含まれる。

 最後に繰り返せば、純粋贈与という概念は成りたたない。存在するという圧倒的な贈与の受けとり(存在の負い)から、人々の心の価値交換は始まっているのだから。柳田の祖霊信仰にしても、折口信夫のマレビト信仰にしても、それらは心的価値の交換にほかならない。

 

 

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