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2015年10月

2015年10月29日 (木)

山本義隆『私の1960年代』



~「近代」という時代の相対化作業~

Yamamotoyositaka_3 60年安保闘争から10年間ほどの1960年代の運動について、自伝手法も交
えながら書かれている。
 山本義隆さんが紹介されるときは東大全共闘代表と肩書きが必ず付けられるくらいだから、「1960年代」とあれば、60年代後半の東大闘争、とりわけ東大闘争の象徴とされることの多い1969年初頭の東大安田講堂の攻防戦に目が向きがちだが、本書はむしろ、そこにいたる歴史的な大きな流れ、背景が個人史とからめて辿られている。
 安田講堂「解放維持」(籠城)決戦の直前に自らが外へ出ざるをえなかった経緯、それを今振り返っての想い、闘争が後退局面に入ってからのこと、糊口をしのぐための仕事、闘争資料の収集保管・公開、さらに科学思想史分野執筆のことなどにも触れている。
 面白いエピソードもたしかに語られているが、結局本書から私がくみとりたいのは、当時の運動が、日本「近代」社会と、そこでの科学、技術のあり方への異議申し立てとしてあったこと。大学での知とそれを担う人のあり方、そして彼の専門分野である科学思想史からみた近代科学と技術の問題に尽きる。
 前者の問題は、著者にとって戦後民主主義を問うことでもあった。

〇丸山眞男への姿勢の変化

 前者を考える一例として、当時東大教授だった政治学者丸山眞男さんが挙げられる。
 山本さんは、「正直に言って私は、68年の東大闘争の期間中、丸山眞男が東大当局にたいして何か言うかと思って注目していたのですが、彼は何も言いませんでした」。そのあと、丸山は「法学部教授」の肩書きを付けて、全共闘の「大衆団交」を「理性の府としての大学にあるまじきこと」と批判した。これに対して山本さんは「私はその時、丸山眞男は外に言っていることと学内でやっていることが違うじゃないかというのが一番の印象でした」と振り返っている。
 私なりの補足すれば、たしかに丸山さんは『日本の思想』(1961年)で、「自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる」、「債権は行使することによって債権でありうる」、「『である』社会から『する社会』組織へ」を謳い、それを「永久革命」と呼んでいた。ところが、現実の場面(東大紛争・闘争)の場ではどうだったのか。丸山さんは教授の特権(教授「である」)に甘んじ、いや、その特権を行使して、学生たちの不当処分反対の運動を圧殺した、と(当時このあたりの大学教授たちの「特権性」批判も含め、大学闘争について、党派主義的・倫理主義的でなく、歴史的・思想的な視点からまっとうな擁護(と批判)を加えたのは、吉本隆明くらいではなかったろうか(『情況』1970年刊所収「収拾の論理」ほか)。
 ただ、今日の山本さんには、丸山批判をめぐり少し姿勢の変化がみられる。丸山自身の発言「理念と運動としての民主主義は、何十年も前にいったことをくりかえすのは気がひけるけれども、〝永久革命〟なんですね」(1989年)を引用して、次のように書いている、「率直に言って現在の私は、丸山の民主主義のこの見方にかなり共感を覚えます」と。かつての丸山批判を堅持するものの、「現在の私は、丸山批判のようなものをあまり正面に出したくない気分でいます。というのも、今ではむしろ、権力の側からの、そして歴史修正主義者の側からの戦後民主主義批判が、きわめて粗雑な、ときには幼稚な言葉で氾濫しているからです」。
 社会情勢の著しい変化がこうした感慨を山本さんにもたらした。

〇大学闘争と近代の科学

 もうひとつは後者、近代科学の問題で、むしろこちらが本書の主題になっている。山本さんの論をざっと辿ってみる。
 もともと西欧では科学と技術が別ものであったのが、紆余曲折を経て、19世紀中期に「科学に基礎づけられた技術、あるいは科学から生み出された技術としての『科学技術』」が西欧に誕生する。
 西欧で「科学技術」が誕生したちょうどその頃に、日本では近代化が始まる。その「絶妙なタイミング」で西欧の科学と技術に遭遇したことが、日本の産業的な近代化を「成功」させた原因のひとつだ。ただし、「欧米では政治的近代化(市民革命)が経済的近代会(産業革命)に先行していたのですが、日本では市民革命による民主化を経ることなく、いきなり産業革命に向かったのであり、そのため『上から』の技術的・産業的近代化にならざるをえなかった」。
 それゆえ、「日本の科学は、基礎科学であると応用科学であるとを問わず、政治と経済と軍事、すなわち国威発揚と生産力の増大そして軍事力の強化を基本的な目的としていた」。その中心的役割を果たしたのが、東京大学(の工学部・理学部)で、太平洋戦争でも帝国大学、とくに東大の果たした役割は大きかった。もてはやされる「工学部や理学部の教授や研究者たちにとって、戦争中はわが世の春だった」。
 ところが、敗戦を迎えると、文学者や文系の学者は責任を問われることがあっても、理科系の学者たちは、戦後になってもそれ以前とまったく同じように今度は「近代文化国家・民主主義国家」建設の担い手として「胸をはって科学賛歌を歌い続けることができた」。戦争中の「わが世の春」を戦後も変わらずに謳歌した。
 だから、大学の個々の組織や制度、運営をめぐり議論や対立が生まれたとき、戦前・戦中・戦後を通じて不問に付されてきた科学のありかた、大学の制度、学者のあり方にまで、学生たちの問いかけが広がるのは避けがたかった。結局、「私たちの議論は、科学や技術そのものにたいする批判に進んでゆきました」となるのは、ラディカルであれば必然だった。

〇科学と技術の限界

 物理学と化学の理論の作られ方の核心について、山本さんは次のように書いている。

さまざまな要因が複雑に絡み合っている現実の自然の中から着目する対象を「系(システム)」として取り出し、そのまわりの世界つまり「環境」あるいは「外界」とみなされる世界からその「系」を切り離し、その孤立した対象としての「系」を人為的にコントロールして、本来の自然環境ではあり得ない理想的な状況を強制的に作り出します。そして、その状況下に出現する現象にたいして、それを規定する要因をわずかな数のパラメータで数量化し、その関係を法則化するのが科学、とりわけ物理学の原理論なのです。

 これはハイデガーが科学をとらえるときのものとほぼ同じだ。ハイデガーは『技術論』でこう書いている。

 この自然科学なるものは、自然現象があらかじめ算定できるものだということを、確保するような知識を追求するものです。ここではただ、あらかじめ算定できるものだけが、存在するものだと見做されています。理論物理学で行われているような自然の数学的見取図や、それに則った実験による自然への照合というものは、一定のきめられた観点から自然の返答を求めます。ここでは、自然は、算定しうる対象という性格において姿を現すように、挑発されているのです。つまり自然は、そういう場に立たされるのです。
 (ハイデガー『技術論』小島威彦訳)

 山本さんは科学思想史から、ハイデガーは哲学(形而上学)史から、ほぼ同じことを語っている。こうした科学を成立させ、確信させる根拠となったが、デカルト的な近代主観にほかならない。近代的な絶対自我の確立こそ、「近代」の奢りを生み、近代の病いをもたらすことになる。

〇原発は「パラドキシカルな存在」

 山本さんは書いている。「物理学の基本法則は、このようにそのままの自然にはありえない人為的に理想化した状態、つまり現象の本質的な部分のみを浮かび上がらせるために、環境との相互作用、環境との物質やエネルギーや運動量のやりとりを遮断し、自然過程から非本質的要因と判断される要素を除去した状態での現象の法則として作られたもの」だ。「しかし物理や化学の原理論の形成と、その技術的・産業的応用は相当異なる」。なぜなら、「環境との物質やエネルギーのやりとりをもふくむ相互作用や、装置における摩擦や金属疲労等による素材の脆化による事故や人間的要因によるミスなどの、原理論の実験過程では捨象され無視されていた要素や要因が避けられない」からだ。「そしてそれらの問題は、通常は事後的・経験的にしか明らかになりません」。「原理主義的な科学とのその技術的・産業的応用までの距離、化学理論から合成化学工業までの距離は、ずっと大きくなっています」。
 そして、「原子炉」となると、「個々の要素や部分についてはともかく、全体としての安全性については、近代科学の前提である実験的検証を受け付けない」。それゆえ「原子炉は、ひとたび事故を起こせばその影響があまりにも大きいために、事故防止装置の実効性を実証することができないというパラドキシカルな存在」である。それは、「ウランの採掘から定期点検にいたるまで被曝労働を必要とする未熟な技術」であり、「環境を汚染し、そして放射性物質を残す不完全な技術」でしかない。かつてそのことに思いが及ばなかったことは措くとして、福島第一原発事故後はいいわけできないはずだ。

 近代に入り、今日まで支配してきた思考は、人間(近代的主観)は「世界」を把握できる主体であり、その知は進歩するというものだ。それをちょっとの失敗や間違いで立ち止まるのは、人類の進歩への敵対だ、という近代論理がまかり通ってきたし、驚くべきことに福島の事故後も変わらない。
 西欧近代では、神に代わって人間が絶対者(神)の座を確保した。人間が立てた「世界」という対象は、人間が把握し統御・制御できるもの。もしそこに把握・統御できないこと(予期・想定できないこと)が起これば、それを克服すべく認識と科学、技術を高めればよい。前進させるのが人間の尊厳だ。こういう近代主義をいまだに手放せない人々が政治や経済の実権を握っている。

〇「近代」の基盤を問う

 山本さんは、補注に収められた2005年に書かれた友人の追悼文で次のように記している(友人とは、東大闘争をともに担い、その後在野で活躍してきた人物)。
 「しかし、率直に言うと、私は近代科学や戦後民主主義を、その否定的な側面を重々承知してはいても、しかしだからといって、それほど簡単に無造作に全否定する気にはならない。その点は彼も同じように考えていたのではないかと思われる。彼も大学アカデミズムに背を向けてはいたが、しかしエンジニアとして八十年代以降の日本の情報技術の発展を見据えてきた」。(「鈴木優一君を悼む」2005年)
 これは、60年代末の丸山眞男を批判しつつも、彼の「永久革命」論に今も共感を覚えることとつながっているようにみえる。

 思うに、1960年代日本の若者たちが掲げた反旗には、二つの主張が込められていた。ひとつは「近代化(自由、平等)が不徹底であること」への批判であり、もうひとつは「近代化そのもの」への批判だった。相反する志向性が混然として渦巻いていた。
 そして今日問われるのは、近代のさらなる推進か、あるいは反近代かという二項対立の図式からまず離れることにある。
 近代の否定ではない、昔へ戻ることではなく、近代を相対化することだ。それは人間という近代的主観の相対化、近代科学の相対化であり、たかだかのツールでしかない近代経済の相対化である。
 自分を相対化できない近代思想と科学、経済のシステムは進路を失いつつある。いったいどこに限界が潜んでいるのか。主体・自我に絶対性を置く世界観だ。デカルト、ガリレオから始まる近代的主観に基づく世界観だ。世界を対象として把握でき、支配・制御できる、とする絶対主観主義だ。まだ把握・制御できないことがあるとすれば、それは人間の不十分性であり、努力すれば必ず全体を掌握でき、人類の幸福につながると確信するのが西欧近代的思考。それはおおむね「ヒューマニズム」と重なる。
 けれども、それは看過できない奢りで支えられている。いったい「主体」は自らがつくったものなのか。自らが自分という主体を生んだのか、つくったのか。生きるための大地、水、雨、海、川、植物、動物、環境は、人間様がゼロからつくりあげたものなのか。キリスト教では、神の被造物とされ人間に与えられ、手段とすることが許された「自然」が、神が後退する(あるいは神を殺す)近代に入ると、人間がこれを全面的に支配する座を占める。

 本書で山本さんは懐かしい人物について触れていた。1970年前後に彼が往復書簡を雑誌上に公開していた相手、滝沢克己。カール・バルト研究などで知られ、69年前後に九州大学の教授で文学部長を務めていた。その滝沢さんの言葉を補注の中で引用している。「人間的主体成立の根底には、人間的主体のあるはたらきに先立」つ力、決定がある。滝沢さんはキリスト教信徒ゆえ、それを「絶対無条件に、一つの聖なる決定」とし、人間という主体はこれに直属する、とした。
 ただ日本列島的な心情は、これをあえて名指さずに「かたじけない」「ありがたい」心情として受けとめていた。絶対の措定をできないからだ。こうした心情が、西欧近代の世界観・宗教観で「多神教」や「アニミズム」として排除されるのは当然のことだ。日本列島的存在観では、西欧的な自我・主体を確立しにくい。いまだに西欧近代的思考に不慣れだ。ゆえに、丸山さんが言葉を強めたように、「である」ではなく、主体的に「する」ように自覚することが求められ、その声を否定はできない。
 ただ、今はその主体の前提を問い直し、近代的思考の場から一段降りてみる。そういう相対化作業は、幸いにして日本列島の思考にはなじみやすい。「絶対の主観」を立てるのが苦手だから。そして、それは強みに転じられるかもしれない。

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