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2015年12月26日 (土)

吉本隆明と小林秀雄(1)

~「第二の敗戦期」と「現代の超克」~       

○「反省なぞしない」へのこだわりYosimoto12

 晩年の吉本隆明さんに、いったいなにが起こっていたのか。こう問えば、ひとは訝しく思うかもしれない。しかし、彼は明らかに厳しい転換点に立たされていた。
 二〇一一年「中央公論」六月号で「私が選ぶ『昭和の言葉』」という特集が組まれた。亡くなる前年のことだが、彼は小林秀雄の言葉「僕は無智だから反省なぞしない」を選んだ。敗戦直後の一九四六年二月号「近代文学」の座談会で、プロレタリア文学系の文士たちから、敗戦前後の姿勢について詰問されたときに、小林が切り返したことばだ。小林は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」とし最後に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と語った。

 戦時中は、大文豪といわれた文学者をはじめ知識人たちはみな戦争に傾き、肯定していた。ところが敗戦を迎えると、掌を返したように変節し、戦時中の自分を反省する作業もせずに戦後民主主義や平和主義を唱えるようになる。こうしたなかで、戦後体制におべっかを使わなかった小林の姿勢を、吉本さんは評価し、「自分が考えていることを言ってくれた気がした」と評価する。もちろん不満も込めている。「もう少し内面的に深く、長く詳しく考えを語ってくれることを期待していたので、はぐらかされたような想いもあって」と。自分の思いを代弁してくれたという共感と、深くは掘り下げてくれないもどかしさが混在していた。そのように両義的に受けとめながらも、主として、敗戦という情況の大変化にあっても安易に考えを変えなかった小林の発言に感心している。

 なにかと話題になる「週刊新潮」(二〇一二年一月五日・一二日号)の発言は、この延長でなされたものだ。同誌のなかで吉本さんは要約すると次のようにいっている。――原発事故後は第二次大戦後の日本社会に似ている。敗戦を機に価値観が180度変わってしまったから。敗戦直後の小林は、「自分はもう年寄りだからね、『今は違う考えになっている』なんて言う気はさらさらない。だから戦争中と同じ考え方を今も持っているさ」と答えていた。それに感心した。時代が変わると考え方も変わる。それは当然だが、僕はそれにもの凄く違和感があった。だから、福島原発事故を取り巻く言論を見ていると、当時と重なって見えてしまう――。

 小林秀雄の「反省なぞしない」しない姿勢を、吉本さんが晩年にあえてとりあげたのは、自身いうように、現在を「第二の敗戦期」ととらえていたからだ。わたしの知るかぎり、第二の敗戦期との表現は、九〇年代末からちらっと使い始めているが、本格的に発言するようになったのは、今世紀に入ってからのこと。「三・一一」はそれを決定づける事態だった。第二の敗戦期は、一九四五年と同じようにそれまでの思想営為を吉本さんに厳しく問うものだった。吉本さんは激しく揺さぶられていた。であるがゆえに、敗戦直後の小林の「反省なぞしない」に強く惹かれたのだろう。小林は、青年期の吉本さんにもっとも深い影響を与えた文学者のひとりだった。「僕は小林秀雄をずっと一生懸命追いかけてきた」と自認するように、終生彼の表現や生き方を追いかけてきた。その評価はつねに両義的だったが、時代とともに評価に重心の移動がはっきりみられた。そこに、吉本さん自身の立ち位置の変化もみえてくる。まず小林評価の変遷を辿ってみよう。

○ふたつの教訓

 「軍国青年」だった吉本さんは、二十歳のとき敗戦を迎える。それは「世界がひっくり返るほどの事態」(「戦争の夏の日」)だった。信頼してきた知識人がこの事態をいったいどう考えるのか、発言を待ち望む。「わたしは、戦争中、小林秀雄の熱心な読者であった。敗戦直後の混迷のなかで、この文学者の声はもっともききたい声のひとつだったが、聞きえなかったという記憶をもっている」(「小林秀雄――その方法」一九六一年)。敗戦後の小林は、「ランボオ論」「モオツアルト論」などを発表する。「しかし、わたしのききたかった声の半分は充たされなかった。戦争とはなにか、これから生きてゆくとは何かについてもはや小林秀雄からなにももとめえないのを知らねばならなかった」(同前)。
 戦前、マルクス主義者や近代主義者だった知識人、文学者たちは大政翼賛会へ流れ、さらに敗戦後、今度は再び立場をがらりと変え、戦後民主主義者、左翼同伴知識人に変貌し、「にぎやかな転換の声」を挙げるようになる。彼らは「藪医者」にすぎない。凡百のプロレタリア文学者たちより、小林のほうが優れていることを見抜いていたからこそ、彼が敗戦をどう受けとめ、何を考えているのか、その声に耳を傾けたかった。ところが小林は口を閉ざした。「他愛のない文学者のほうは、戦後にぎやかな転換の声をあげたが、かれは頑固に沈黙をひびかせていた」(同前)。小林の沈黙が戦争から深い痛手を負っていることを示していると理解したものの、その沈黙にはもの足りなさを感じ、失望の念を抱かざるをえなかった。もはや小林にも求めえない、という失望が広がった。

 敗戦前後の小林から、吉本さんは二つの教訓を得て、以降それを表現者としての自分に課した。ひとつは、知識人、もの書きである以上、情況への発言を怠るべきではないということ。沈黙をひびかせた小林への失望が、吉本さんの原点になる。それゆえ最晩年、歩くことや字を読むのもままならない状態になっても、彼は情況への発言をけっして怠らず、最後までそれを倫理として貫いた。請われれば自らの考えを開示しつ続けた姿勢は、容易にできるものではない。みごとというしかない。
 もうひとつは、小林が戦争を「宿命」と受容した姿勢を乗りこえる道を自力で切り拓くことを課題とした。戦時中、自分としてはよくよくものを考えているつもりだったはずなのに、どこかで間違えてしまった。社会の方からやってくる動きには、とてもたちうちできず振り回された。世界をつかむ方法をまったく手にしていなかった。方法をもたない文学者、知識人たちは何も語ってくれない。自力でそれを生みだすしかない、と。

 戦争を歴史の必然性、「宿命」と受けとめた小林秀雄の限界を超えていくことが、吉本さんの戦後の営為の原点にほかならない。凡百のプロレタリア文学者よりは小林秀雄を断然評価するものの、現実の解析へ向かわなかった点において、小林秀雄は「もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりにさえ、一歩ゆずらざるをえなかった」といいきる。
 敗戦後の小林に感じたもの足りなさを掘り下げ、厳しい批判を前面にうちだしている。ここで小林と分岐をなし、自立思想の営為を長年続けてきた。戦争、社会、国家、権力……、これらの解明に向かう。この一九六一年の小林秀雄論では、「僕は無智だから反省なぞしない」の言に感心したりすることはまったくなかった。

○「ダメだね」から一転して評価へNorinaga1

 以降も吉本さんは文学的に評価することはあっても、不満を漏らすほうが多かった。現に、七〇年代半ばに小林秀雄が『本居宣長』を発表したとき、批判の口調は六〇年代よりさらに厳しさを増した。小林の大著『本居宣長』にあるのは、「日本の学問、芸術がついにすわりよく落ち着いた果てにいつも陥いるあの普遍的な迷蒙の場所」だった、と。論理を軽蔑したあげくに、「原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路」の陥穽に小林秀雄もまた落ちていった、と。「小林の無意識の織りなす綾のうちに、営々たる、戦後の解放と営みを全否定しようとするモチーフが、あやしい光を曳いてゆくのをどうすることもできない」(「『本居宣長』を読む」一九七八年)。結局『本居宣長』は、戦後の思想的営為を全否定するものにすぎないではないか、と。こうも語っている。「小林秀雄の『本居宣長』をいっしょに読んでいて、つくづく読んでいていやになった、小林秀雄ってのはダメだねっておもいましたね。……。ダメっていうのは、要するに何もないですよね」(「伝統と現代」七八年五月号)。
 ところが晩年になると一転して、重心を移動させる。小林の敗戦後の姿勢をあえてとりあげ、評価するようになる。二〇世紀も末を迎えたころからだ。
 『私の「戦争論」』(一九九九年刊)では、「反省なぞしない」発言を「まっとうだと僕は思いました」ととりあげる。小林が戦前と戦後の姿勢を変えなかったこと、情勢の変化に応じていたずらに態度を変えなかったことを、むしろ改めて感心して強調するようになる。そういい始めるのは、ちょうど現在を「第二の敗戦期」ととらえるのと重なる。

○「第二の敗戦期」とする分析の視線

 第二の敗戦期とし、社会のとらえ直しを彼が迫られていたことをはっきり示すのが、二〇〇八年前後の著述だ。「この四、五年で、日本の「戦後」が終わり、新しく『第二の敗戦期』とも呼ぶべき段階に入ったのではないか」(『貧困と思想』二〇〇八年刊)と。
 なぜ、「第二の敗戦期」なのか。親の子殺し、子の親殺しなど、近親間の殺人や、「相談自殺」(集団自殺)などが目立つようになった。『蟹工船』がベストセラーになったように、新しい貧困が生まれ格差が拡大している。さらにはマルクスとエンゲルスの時代(産業革命期)の肺病に代わって、現代の「第二次産業革命」では「精神病」が蔓延してきたことも挙げる(同前)。底のほうで地殻変動が起きている過渡期にある、ととらえる。

 わたしが着目し極めて重要と思うのは、「第二の敗戦期」を分析するときの視線だ。コミュニケーション装置の急激な発達を挙げたあと、「東洋の美風とされてきた家族的、親族的な一体性がどんどん壊れていく」(同前)事態を指摘している。あるいは「ゆったりした農本的な生活の感覚は違和にさらされている」(『「情況への発言」全集成3』)と。
 「東洋の美風」「ゆったりした農本的な生活の感覚」という表現と、それらが解体されつつある事態に慨嘆を漏らしている。驚くべきことだ。なぜならこうした見方は、彼が八〇、九〇年代に、倫理的反動、停滞と罵倒してきたものと近似しているからだ。吉本さんが高度資本主義を「最高の達成」と評価し、さらに考察の歩を前に進めるときに、倫理主義の反動としてことごとく蹴散らしてきた言とほとんど重なってしまう。

○「アジア的」の両義性

 とくに、二〇〇八年刊の『「情況への発言」全集成』の「2」と「3」に付けられた「新書版のためのあとがき」は、彼の思想史をとらえなおすとき、たいへん重要な位置を占めている。心身の力はかなり衰えているはずの彼が、一部文意を読みとりにくいところもあるものの、振り絞るようにして紡ぎ出した言葉が綴られている。晩期の著述のほとんどは、語りを編集者がまとめたものだが、自ら執筆したと思わせる密度を感じさせる。優れた編集者の支えにも依っているのだろうが、晩年期の、核心を衝いた「情況への発言」である。

 数年前から日本が第二の敗戦期に入ったとし、次のように分析している。「これは如何なる徴候とみなすべきか。わたしはさしあたり、日本国のアジア的な固有値が急速にインド・ヨーロッパ型の人間関係の接触距離感に接近しつつあることを意味すると見做してきた。その変化も生活意識と産業の同一性さえあればよかったが、ゆったりした農本的な生活の感覚は違和にさらされている。世知辛さやこまやかな人間距離も産業の構造変化のはざまに追い込まれたが、どこへ脱けだせればいいのか判らない。日本国はそこに落ち込みつつある過渡的状態だと言える」(『「情況への発言」全集成3』)。

 八〇年代前半「試行」で「アジア的ということ」を七回にわたり連載したように、彼は「アジア的」にこだわり、これを両義的にとらえてきた。アジアでは農耕共同体のまま二千年以上のときが経過し、第二次産業の発展や歴史の進歩から外れていた、つまり停滞の地域だった。しかし、村落共同体の相互扶助や親和的人間関係が維持されてきたとも評価する。その論考は、近代的進歩史観にとらわれたレーニンを批判し、「アジア的」の両義性をしっかりとらえるマルクスを評価するかたちで展開された。
 (以下 (2)へ)

[2013年「流砂」6号に掲載]

※吉本隆明さんをめぐっては、拙著『村上春樹と小阪修平の1968年』(2009年刊)内のⅡ部内「マルクスと吉本隆明の先へ」、及び『吉本隆明と「二つの敗戦」』(2013年刊)で論じている。

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