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2015年12月

2015年12月31日 (木)

鈴木孝夫と三木成夫

~西欧知の黄昏にて 動物的原理・植物的原理~

 「ミネルヴァのふくろうは、黄昏がやってくると初めて飛びたつ」と書いたのはドイツの哲学者ヘーゲルだ。「ミネルヴァのふくろう」とは哲学、知を指す。哲学が現実の社会をしっかりとらえられるのは、社会が成熟し仕上げられたとき、つまり黄昏がやってきたときである。飛びたつふくろうは、新しい時代の姿も自ずから告げるはずだ。
 ヘーゲルがこう書いてから二百年近く経つ。いま西欧(欧米)的近現代は明らかに黄昏を迎えている。しかし、ミネルヴァのふくろうが西欧の地から飛びたっているようにはみえない。羽音は極東の島から聞こえてくる。

〇「欧米が普遍」信仰を棄てる

 鈴木孝夫さんは、一貫して「西欧絶対主義」、「欧米中心主義的な考え方」を批判してきた。これまでわたしたちが目にするそうした批判の多くは、欧米へのコンプレックスの裏返しとしてあった。しかし鈴木さんのそれは従来のものとは異なる。言語社会学、海外留学、長年にわたる文化交流を通じて、「バスト型外国観」をうち破り「下半身」も含め西欧的原理を冷静に相対化し、さらに二〇世紀社会の爛熟と危機を踏まえたものであるからだ。

Suzuki1 鈴木さんは語る、そもそも西欧文明とは普遍でもなんでもない「ある時期のある地域の特殊現象だ」と。「ヨーロッパが普遍に一番近くて、ヨーロッパ的になることが普遍への早道だと言うそれまでの考えをまず壊」さねばならないと(『私の言語学』)。言語学のみならず、すべての分野の学にそれはいえることだ。

 では「西欧絶対主義」「欧米中心主義的な考え方」とはどんなものか。「人間中心的な動物観」であり、「自他の対立を基礎とする」ものだ。
 人間中心とは、人間を最上位に置き、その下に家畜、野獣、下等動物と順に並べ、断絶した上下階層で生物をとらえるものだ。古代ギリシャ、キリスト教の流れを受けた人間観、自然観であり、自然(人間以外のもの)は制圧し支配する対象でしかない。
 それは他者との関係にも投影される。西欧文明は「強烈な自己主張と異質な他者への容赦ない排除を文化原理とする」(『日本人はなぜ日本を愛せないのか』)。自分が世界の中心に立つとする文化だ。

 その背景を、鈴木さんはたとえば食料源の面から探り、ユーラシア大陸と日本とを対比させている。ユーラシア大陸文明は「家畜+穀物(主として小麦)複合体」が生活基盤となっている。これにたいして日本は「魚介+穀物(米と雑穀)複合体」である。そして「動物性食料源が家畜か魚介か」の相違が世界観を分けてきたというのだ。家畜は意のままに統御できる。それが動物のみならず人間をも支配の対象とするときの意思の強さを生む。支配と被支配の明確な区別、対立や断絶をもたらすことになる。ところが、魚介は人間が支配したり命令できる対象ではない。したがって人間以外の生き物とも共存しなければならない、あるいは他の生き物に生かされているという意識が生まれる。他者との関係でも、相手との摩擦、対立を嫌い、譲りあい支えあう。
 このような対比を、鈴木さんは攻撃的な「動物的原理」と穏やかな「植物的原理」と表している。あるいは「断絶の思想」と「連続の思想」、「ヤドカリ文化」と「サンゴ礁文化」と対比させている。そして今日世界の主導権を握っているのが「動物的原理」であることに警鐘を鳴らす。

〇人間中心主義による「文明の勝利」の黄昏

 じつはこのような「動物的原理」と「植物的原理」の対比を、生命形態学の立場から同様に問いかけて欧米的文明観を批判する人がいた。三木成夫さん(一九二五~八七年)だ。Keitaigaku

 三木さんは動物と植物の特徴を対比させる。植物は合成能力をもち、いながらにして自らを養うことができる。一方動物はいながらにして自らの体を養うことができないから、餌を求めて動かなくてはならない。植物は大自然のなかで根を張り、稔り豊かな一生を送る。動物のほうは、目先の餌を捕獲すべく動き回る。生物本来の栄養―生殖の営みを、植物は「自然と協力しながら」、動物は「自然とたたかいながら」行う。

 ところで、動物(人間)の体は、植物と動物のこの特性をそれぞれもつ器官群(植物性器官と動物性器官)で構成されている。植物性器官とは、栄養―生殖(吸収、循環、排出)をつかさどる内臓、血管などである(内臓系)。その中枢は「心臓」になる。一方、動物性器官とは、感覚―運動(受容、伝達、実施)をつかさどる骨格や筋肉、神経などである(体壁系)。その中枢は「脳」になる。

 三木さんは、生本来の営みをつかさどるのは植物性器官(内臓系)であり、それを目標まで持ち運ぶ四輪駆動車が動物性器官(体壁系)だと喩えている(『胎児の世界』)。あるいは、「動物とは、胃袋と生殖器に目と手足がついたもの」と喩える(『ヒトのからだ――生物史的考察』)。
 そして、動物のなかでも脊椎動物になると、動物性器官の筋肉や神経が植物性器官へしだいに張りだしてきて、植物性器官が外部の動きに敏感に反応するようになる。また、動物性器官は著しい分化を遂げ、なかでも神経系、とくに脳が発達する。その頂点に達したのが人間である。人間では、まわりを筋肉にとり囲まれた植物性器官(内臓、心臓)は外界の影響を受けて、「心情」が発達する。食と性という基本以外のできごとにも、心を揺さぶられるようになる。人間の心は、「動物性器官の構成要素である筋肉や神経が、植物性器官へ強く介入するところから、しだいにめざめていった」ものだ。
 他方、発達した脳には「精神作用」が働くようになる。自我の意識を生みだす。「心情」は植物的な営みを、「精神作用」は動物的な営みを表出したものにほかならない。さらに動物性器官が発達し強くなると、生の中心が心臓から脳へ移行する。動物性器官が植物性器官を強く支配するようになり、精神が心情を抑えこむ。

 このような人間の「自我」の行きつく先について、三木さんは次のように書いている。「人々は、その欲望にしたがって、しだいに自然のいちいちを評価するようになり、これをもとに自然を利用し、そして改造し、ついにはこの破壊を人類文明の勝利と結びつけてはばかるところがない」((『ヒトのからだ――生物史的考察』)。頭と心臓のバランスが壊れ、頭があまりに支配的になってしまった。その根底に、「ユダヤ・キリスト教の人類至上主義(ヒューマニズム)に象徴される、あの根強い人間精神の存在」を三木さんはみている。

 こうしてそれぞれの専門学を超えた鈴木さんと三木さんの論は、西欧文明批判として深く共鳴しあっている。動物的原理と植物的原理という象徴的対比から、期せずして西欧的世界観に異を唱えている。二人が現実に相まみえた形跡はないが、一九二五年(三木さん)、二六年(鈴木さん)と生年が大正末でほとんど同じというのは興味深く、ここに二三年生の谷川雁、二四年生の吉本隆明も加え、知の巨星について考えてみたい誘惑に駆られるが、それは本稿のテーマから外れるので控えよう。

〇「自由な人格」が際限なき経済拡張を強いる

 二人が批判した、動物的原理を核としてきた西欧の文明は、その哲学によく示されている。じつは西欧知が基本に据える「自由な人格」の確立こそ、「あくなき経済拡張」を強いているといわざるをえない。そこでは、世界を認識する主観を確立し(カント)、世界を概念把握し(ヘーゲル)、「地球全体の支配者、主人」になる(アレント)のが、人間の「自由」の姿とされる。自然性を振り払い、あるいは制圧し、自我を確立し、世界を支配するところに人格の自律、自由がある。「道徳」や「人倫(倫理)」を生み出すこの「自由な人格」論は一見まっとうにみえるし、近代を推進する力になった。だがこの思想は、その原理からしてあくなき経済拡張を要求しているのだ。二点、みてみよう。

 人格、精神は「野蛮、粗野」な自然を支配し、克服し、制圧することで「自由」を獲得できる。食うためにあくせく(労働)していては、自由になれない。衣食住のごたごたにできるだけとらわれない(あるいは他人・奴隷にそれを押しつける)先に自由が得られる。奴隷制が許されないなら、生産力、生産性を向上させることは至上命題となり、限りがない。資本制を厳しく批判したマルクスも、この論から自由ではなかった。
 だが人間は自然的存在であり、それを超克できはしない。仮にどんなに貨幣や食料を溜めこもうが、日々自然的存在としての自己と向きあわなくてはならない。むしろ自然と寄り添うなかに自由を見いだすしかないのだ。全き自由など存在しない。

 もうひとつは、ヘーゲルに象徴されるように、市民社会における「自由な人格」の確保の仕方だ。ヘーゲルによれば、人格は自らの身体を「所有」し、身体を精神化(精神による統御)することから始まり、周囲の「物件」(もの、自然)を「占有取得」することで、自由を拡充することができる。物件を所有する権利をもち、物件を他者と交換しあうことで、お互いの人格を承認しあう。分業が進むと、自分の欲求を実現するには、他者(のつくったもの)に依存しなければならない。物件の所有権を認めあい、商品を交換し互いに依存しあうなかで、市民社会における人格の権利と自由が保障される。つまり市民社会での「自由」は、所有権主張と拡大、交換で確立される。

 ところで、資本制社会では交換(売買)は、できるだけ安く買い、できるだけ高く売るのが原理である。利潤、資本を増殖させなければならない。当然、たえざる自然制圧、モノの所有拡大、たえざる売買(安く買って高く売ること)こそ、「自由」を充足させてくれる条件になる。所有と売買の欲求はとどまることなく拡大していく。こうして、「人格の自由」追求は「あくなき経済拡張」に帰結する。

 だが、こうして獲得される「自由」を、今日わたしたちは自由と賞揚できるのだろうか。これは「恣意」と呼ぶほうがふさわしいのではないか。もちろん恣意も大切だ。身分が固定され、気ままに振る舞えなかった封建制からの解放を、近代が「自由」と呼んだのはわかる。たしかに産業革命勃興期の時代状況をみれば、生産力発展論や市民社会論は時代にとってリアルな思想だったといえる。ヘーゲルもマルクスも「時代の息子」だった。しかし近代のこうした知の枠組みは、カント、ヘーゲル、マルクス以降の、マルクス主義も、ポストモダンも、そして「正義論」論議で賑やかなリバタリアニズムやコミュニタリアニズムに至る今日まで、変わることはない。それは極東の島の学をも覆い、わたし(たち)自身、それにとらわれてきた。

〇「戦線縮小」の道

 こうした事態を鈴木さんは厳しく批判する。「そこで分かった重要なことの一つは、『個人がいかなる考えを持とうとも、どんな生き方を望もうとも、すべてが許され誰もが楽しく生きていけるような社会が理想だ』とする進歩思想、つまり無制限な個人の自由と欲望の解放をよしとする考えは理論的に成立しえない、したがって実現不可能な空想であり、それは長期的に見た人類の存続自体をも危険な状態に陥れかねない間違ったものだということです」(『私は、こう考えるのだが。』)。

 一方、三木さんも深刻な懸念を示している、「……、ここで特に注意しなければならないことは、宗族発生(系統発生)的にも、個体発生的にも、おくれて現れた〝精神〟の世界が、いわば先輩格にあたる〝心情〟の世界を、ついには、とり返しのつかぬまでに侵略しつくそうとしていることである。この侵略行為は、われわれの好むと好まざるとにかかわらず、無意識のうちに行われていることであって、それは、すべてをのみつくす奔流を思わせるものがある」と(『ヒトのからだ――生物史的考察』)。

 ではどうすればよいのか。鈴木さんは「山登りで言えば人類は既に繁栄の頂上を極めてしまった以上、あとは降りるしか残された道はない」(『私は、こう考えるのだが。』)とし、「戦線縮小」を提唱する。
 これは、近現代とその基本動因の変換を根底から問うものにならざるをえない。あくなき生産力の発展こそ自由と幸福を確保する、という西欧知の自由(恣意)論、進歩論を超えるしかない。このときわたしが模索するのは、人間の欲求を否定する「道徳主義」に依拠するのでもなく、現在の経済システムに無批判に依拠するのでもなく、社会関係の組み替えを追求することだ。生産・消費・排出の過程と関係を組み替えていくこと。より多くモノを所有することや、交換(安く買い高く売ること)で貨幣・資本を殖やす欲求・欲望から、協働・協同の生産・消費(広く諸活動)による「交歓」へ。自然性を排除・制圧する人格の自由から、自然と寄り添う自由へ。知(自我)の絶対化に価値を見いだすことから、人格や知を相対化(ときには無化)することに価値を見いだすことへ。

 たしかに西欧的知から吸収すべきことはまだ多い。反省的運動も盛んに起こっている、食文化の多様性を尊重しようと、スローフード運動が北イタリアから始まったように。だが、西欧知の基本枠組みの時代的限界はもはや明らかだ。ミネルヴァのふくろうではなく、極東の島から知恵の鳥が飛びたち始める。

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 (2011年刊 鈴木孝夫研究会編『鈴木孝夫の世界 第2集』に寄稿)

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2015年12月26日 (土)

吉本隆明と小林秀雄(2)

~「第二の敗戦期」と「現代の超克」~

○「儲からない農業」の行方Afrika1

 しかし、九〇年代に入り、マルクスの史観にも限界をみた彼は、「アフリカ的段階」を設定し、高度資本主義のさらなる進展の追求と「アフリカ的段階」(プレ・アジア的段階)への遡行が同じであるような方法に活路を見いだそうとする。史観の拡張である。

 「現代の超克」を考えるとき、彼は「現代を超えること」とアフリカ的段階に下りることが一緒である方法に求めた。「上のほうに抜ける」こと、つまり産業のさらなる高次化と、「下のほうに抜ける」こと、つまり「自然にまみれた」アフリカ的段階に下りることが同じであるという方法を模索した。高度資本主義の進展(西欧的段階の先へ進むこと)は必然でありそれを阻んではならない。そのときアジア的なるものが消えることは避けられないと認識し、それを必然と受けとめていた。同時にそのとき、プレ・アジア的段階としてのアフリカ的段階を受け皿として用意していた。だから日本の現状を語るとき、アジア型農村の解体を押しとどめようなどとは考えていなかった。当然「ゆったりした農本的な生活の感覚」へ執着を示すこともなかった。むしろ、そんなこだわりをこめた言説を倫理的反動と蹴散らしてきた。それは農業のとらえ方に端的に示されていた。農業とそれを営む人がどうなるか、たしかにこれを「現代の超克」の重大なテーマとおさえていたが、他の産業と比べて「儲からない農業」が日本から消えるのは、是非を超えてやむをえないことととらえた。「農業離脱」は文明と歴史にとって不可避ととらえていた。誰も止められないし、止めてはならないと。

 ところが二〇〇八年、「農本的な生活の感覚」が違和にさらされていると慨嘆を漏らした。「農業離脱」を果たす列島が「農本的な生活の感覚」を失うのは避けられないはずだ。「生活の感覚」は、働きかける自然や産業との具体的関わりを外して抽象的になど存在しえないのだから。かねてから生活感覚の速度は産業の速度と重なると自らも認めていた。だからこの慨嘆は、『ハイ・イメージ論』と噛みあわない。彼の思考は引き裂かれていた、とみるしかない。もちろん、わたしはここで矛盾をあげつらいたいのではない。彼に引き裂かれを強いた情況の激変は、当然わたし(たち)が問われる課題にほかならないのだから。

○「恥ずかしそうな小さな声で」

 さらに注目すべき表現が並ぶ。同じ全集成の「2」の「新書版へのあとがき」では、こうも書いている、「西欧的(アメリカを含めて)段階とアフリカ的段階の中間にあって、わたしたち日本列島の住民は、アフリカ的段階を含めて、本当のグローバルとは何かを確定する好位置にある」と。続けて、日本列島の住民について、「単なる利潤や思想なきイデオロギー主義を超えることもできるひらかれた位置をしめているといってもいい、と恥ずかしそうな小さな声でつぶやいてもいいとしよう」と記している。

 このフレーズでは驚くことがある。まず、「日本列島民」が、「単なる利潤や思想なきイデオロギー主義を超えることもできるひらかれた位置をしめている」とするとき、「単なる利潤」が超えられるべきものと否定的にとらえられている。「単なる利潤」追求とは資本制の原理だ。吉本さんは資本制を無意識の「最高の達成」と評価し、八〇年代以降、その批判を原則として自らに封じてきたはずだ。ところが、ここでは「単なる利潤」追求の乗りこえに目を向けている。明らかに八〇、九〇年代の営為を根本からとらえなおす地点に立たされていた。資本主義のさらなる進展(超資本主義)、産業の高次化による価値増殖の先に未来を託した『ハイ・イメージ論』とは異なる地点に立っている。
 さらに読むものをはっとさせるのは、こういう述懐を、「恥ずかしそうな小さな声でつぶやいてもいいとしよう」と自己反省的な言葉で素直に表明していることだ。老いた吉本さんの、驚くべき率直性である。二〇〇八年段階で、吉本さんはこれまでの営為を問われていた。それが反面、小林の「反省なぞしない」にこだわらせた。

 もう一点、さらに補足しておくと、同じ二〇〇八年次のように語っている。「第二の敗戦期」である現代の課題について触れているくだりだ。「病気のことと、拡大する産業規模をどこで止めるか、止められるか、あるいは他に抜け道があるのかということを考えることが今の課題だろうと思います」(『貧困と思想』)。とても重大なことがさりげなく語られている。これまで一貫して資本制原理(である産業の拡大)に批判的な言辞を挟む論を一蹴してきたし、『ハイ・イメージ論』でも未来を切り拓く「産業の高次化」を語ってきた。ところが、その産業の高次化、産業規模の拡大にたいして、「どこで止めるか、止められるか、あるいは他に抜け道があるのか」という問いを投げかけるにいたる。思考の大きな転換を迫られていた。

○「三・一一」と「宿命」Jokyo2

 さて、現在における「宿命」を問わなければならない。小林秀雄は「大事変」(先の戦争)を、「一部の人達の無智と野心から起った」と反省しても、それは「はかない復讐」にすぎないし、力をもたない、歴史の必然性の怖しさを知らない戯言にすぎない、と言い切った。これにたいして、吉本さんは、「歴史の必然をものにしたいならば、わたしたちの思想が社会や国家や権力や、そういうもろもろのものから自立していることが必須の条件である」と自立の思想構築へ進んだ。吉本さんにとって、小林の目には「宿命」と写ったもの(歴史の必然)と格闘し、それを超えることが前提だった。その思想は、「黙々と戦争にしがたった多数の生活者」の思想とどこかでつなげなければならないと志向した。

 さて、晩年の吉本さんは「科学の進歩」を、小林の言う「宿命」と同じように受けとめている。たしかに「科学の進歩」は知の自然過程にほかならない。それを宿命といいかえることはできる。わたしたちがときに、いやだな、不気味だなといった心的なひっかかりを抱きながらも、科学の進歩は止められない。科学は「自然を拷問して口を割らせる」(小林秀雄)方向へどんどん進む。それは、是非を超えている。

 しかし、である。「科学の進歩」と、原子力発電所を生活圏で実際に稼働させることは、次元を異にする。いいかえれば、「科学の進歩」を阻んではならないから、原発を稼働させなければならない、と短絡させる必要はまったくない。そこには飛躍がある。原子力発電所を生活圏で稼働させなければ、科学が「進歩」したことにならない、わけではない。開発した原子力爆弾は必ず保持し必ず使用しなければならないという論が、短絡、飛躍であるのと同じように。しかもこの「進歩」は、使用済み核燃料棒という廃物のまっとうな処理をできずに、将来に押しつける甘えによって成立する。
 吉本さんは敗戦後と「三・一一」後とを比べ、「原発事故後は第二次大戦後の日本社会に似ています」、「今は当時と重なって見える」としている。しかし、敗戦後の知識人や文学者が反省もなしに立場を変えたときと、「三・一一」を経て、脱原発・反原発の声が(知識人や文学者ではない)多くの人びとのなかで勢いを増した事態を重ねるのは難しい。また、総力を挙げた「大事変」(「大東亜戦争」)と、原子力発電所の事故は、位相を異にする。原発は「核エネルギーの利用開発」の一形態の問題にすぎない。核エネルギー研究に科学の必然性はあっても、原発稼働という原子力利用の単なる一形態は、「歴史の必然性」でも「宿命」でもない。わたしたちの手によっていかようにも変更できる政策次元のことだ。

○近現代が迎えた敗戦期

 たしかに、『「反核」異論』のころ、(ソフト)スターリニズムとの闘いを独力で強いられた背景もみておかねばならない。吉本さんは、科学の知的探求自体に善悪の判断を挟んではならないという立場を一貫してとってきた。科学の進歩は妨げてはならない、「技術は必ず現在を超える」、これが彼の信念だ。技術は技術によって超えるしかないとするのは、一見するとハイデガーの技術論と似ている。近代技術とは別のところに、これを超える可能性をみるのではなく、技術のなかにこそ技術を超えられる可能性をみることにおいて。

 だが、両者の論は異なる。技術自体のとらえ方に違いがあるからだ。ハイデガーは「近代科学」が「自然現象があらかじめ算定できるものだということを、確保するような知識を追求するのです」(『技術論』)と、その限界を指摘し、踏まえている。しかし、吉本さんには技術を相対化する姿勢がみえない。肯定か否定か、進歩か退歩か、前進か暗黒か、そう二者択一を迫る構造のうえに立つ。科学の進歩を否定するのは退歩であり、暗黒への逆戻りである、と。おそらく彼の敗戦体験が深く影を落としている。あえていえば、「アフリカ的段階」の設定がその風穴を開けるものと位置づけられていたのだろう。

 「三・一一」の地震と津波は、自然の絶えざる生成の一環にほかならない。この自然の生成のなかで、近現代科学技術「進歩」の粋が脆くも崩れ、放射性物質が拡散した。さらに生産過程で生じる廃物の「最終処分」を曖昧に棚上げしてきた、わたしたちの身勝手を改めて露わにした。「三・一一」は近現代文明が抱える驕りと矛盾を露わにした。とすれば、第二の敗戦期というより、二〇世紀、さらに近現代が「敗戦期」を迎え、「進歩」が問い直される時期に至ったとみるべきではないか。ここでわたしは「進歩」に「反進歩」を対置したいのではない。むしろ、進歩か反進歩か、欲望か反欲望か、という近現代が立ててせめぎあってきた二項対立の思考構造が破綻したことを意味していると思う。そしてあの「六八年」という時代の運動は、そのことを先駆的に受けとめて起こったものではなかったか。

○与えられた課題

 人は相当の高齢になって大転換を図るのは難しい。最晩年の吉本さんは、むしろ変わらないことを貫こうとした。高齢と心身の状態を考えれば、そう処するしかなかったろう。それは批判でも皮肉でもなく、八〇代半ばまで生きぬいた人間存在の自然過程上で、避けられない貫きだと思う。そして二〇〇八年段階で大転換を迫られて漏らした「恥ずかしそうな小声でつぶやいてもいいとしよう」という率直な感慨を真摯に受けとめ、晩年の引き裂かれを直視し課題とするのが、彼の営為への礼儀と思う。字を読むことも歩行することもままならないなかで、それでも意識を研ぎ澄まし情況を受けとめ、その本質をつかもうとした、八〇代半ばの彼の発言を、しかと受けとめたい。「反省なぞしない」を評価しつつ、大転換を迫られていた事態をしかと受けとめたい。わたしの課題を列記してみる。

・吉本思想のOSとして設定された「大衆の原像」の再設定
・贈与論の近代的限界と「存在の倫理」のさらなる掘り下げ
・産業の高次化(価値化)とアフリカ的段階の追求を重ねる方法の問い直し

 いずれも「現代の超克」を考えるときに、避けて通れない課題である。今日でもいささかも色褪せない共同幻想論(対幻想論)、親鸞論(非知の問題)、心的現象論、母型論などとさらに対話し、糧とさせてもらいながら、その作業を進めるしかない。それが故人から計りしれない知的恩恵を受けてきたわたしが、その営為と労に多少でも報いる道である。 (おわり)

[2013年「流砂」6号掲載]

※吉本隆明さんをめぐっては、拙著『村上春樹と小阪修平の1968年』(2009年刊)内のⅡ部内「マルクスと吉本隆明の先へ」、及び『吉本隆明と「二つの敗戦」』(2013年刊)で論じている。

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吉本隆明と小林秀雄(1)

~「第二の敗戦期」と「現代の超克」~       

○「反省なぞしない」へのこだわりYosimoto12

 晩年の吉本隆明さんに、いったいなにが起こっていたのか。こう問えば、ひとは訝しく思うかもしれない。しかし、彼は明らかに厳しい転換点に立たされていた。
 二〇一一年「中央公論」六月号で「私が選ぶ『昭和の言葉』」という特集が組まれた。亡くなる前年のことだが、彼は小林秀雄の言葉「僕は無智だから反省なぞしない」を選んだ。敗戦直後の一九四六年二月号「近代文学」の座談会で、プロレタリア文学系の文士たちから、敗戦前後の姿勢について詰問されたときに、小林が切り返したことばだ。小林は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」とし最後に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と語った。

 戦時中は、大文豪といわれた文学者をはじめ知識人たちはみな戦争に傾き、肯定していた。ところが敗戦を迎えると、掌を返したように変節し、戦時中の自分を反省する作業もせずに戦後民主主義や平和主義を唱えるようになる。こうしたなかで、戦後体制におべっかを使わなかった小林の姿勢を、吉本さんは評価し、「自分が考えていることを言ってくれた気がした」と評価する。もちろん不満も込めている。「もう少し内面的に深く、長く詳しく考えを語ってくれることを期待していたので、はぐらかされたような想いもあって」と。自分の思いを代弁してくれたという共感と、深くは掘り下げてくれないもどかしさが混在していた。そのように両義的に受けとめながらも、主として、敗戦という情況の大変化にあっても安易に考えを変えなかった小林の発言に感心している。

 なにかと話題になる「週刊新潮」(二〇一二年一月五日・一二日号)の発言は、この延長でなされたものだ。同誌のなかで吉本さんは要約すると次のようにいっている。――原発事故後は第二次大戦後の日本社会に似ている。敗戦を機に価値観が180度変わってしまったから。敗戦直後の小林は、「自分はもう年寄りだからね、『今は違う考えになっている』なんて言う気はさらさらない。だから戦争中と同じ考え方を今も持っているさ」と答えていた。それに感心した。時代が変わると考え方も変わる。それは当然だが、僕はそれにもの凄く違和感があった。だから、福島原発事故を取り巻く言論を見ていると、当時と重なって見えてしまう――。

 小林秀雄の「反省なぞしない」しない姿勢を、吉本さんが晩年にあえてとりあげたのは、自身いうように、現在を「第二の敗戦期」ととらえていたからだ。わたしの知るかぎり、第二の敗戦期との表現は、九〇年代末からちらっと使い始めているが、本格的に発言するようになったのは、今世紀に入ってからのこと。「三・一一」はそれを決定づける事態だった。第二の敗戦期は、一九四五年と同じようにそれまでの思想営為を吉本さんに厳しく問うものだった。吉本さんは激しく揺さぶられていた。であるがゆえに、敗戦直後の小林の「反省なぞしない」に強く惹かれたのだろう。小林は、青年期の吉本さんにもっとも深い影響を与えた文学者のひとりだった。「僕は小林秀雄をずっと一生懸命追いかけてきた」と自認するように、終生彼の表現や生き方を追いかけてきた。その評価はつねに両義的だったが、時代とともに評価に重心の移動がはっきりみられた。そこに、吉本さん自身の立ち位置の変化もみえてくる。まず小林評価の変遷を辿ってみよう。

○ふたつの教訓

 「軍国青年」だった吉本さんは、二十歳のとき敗戦を迎える。それは「世界がひっくり返るほどの事態」(「戦争の夏の日」)だった。信頼してきた知識人がこの事態をいったいどう考えるのか、発言を待ち望む。「わたしは、戦争中、小林秀雄の熱心な読者であった。敗戦直後の混迷のなかで、この文学者の声はもっともききたい声のひとつだったが、聞きえなかったという記憶をもっている」(「小林秀雄――その方法」一九六一年)。敗戦後の小林は、「ランボオ論」「モオツアルト論」などを発表する。「しかし、わたしのききたかった声の半分は充たされなかった。戦争とはなにか、これから生きてゆくとは何かについてもはや小林秀雄からなにももとめえないのを知らねばならなかった」(同前)。
 戦前、マルクス主義者や近代主義者だった知識人、文学者たちは大政翼賛会へ流れ、さらに敗戦後、今度は再び立場をがらりと変え、戦後民主主義者、左翼同伴知識人に変貌し、「にぎやかな転換の声」を挙げるようになる。彼らは「藪医者」にすぎない。凡百のプロレタリア文学者たちより、小林のほうが優れていることを見抜いていたからこそ、彼が敗戦をどう受けとめ、何を考えているのか、その声に耳を傾けたかった。ところが小林は口を閉ざした。「他愛のない文学者のほうは、戦後にぎやかな転換の声をあげたが、かれは頑固に沈黙をひびかせていた」(同前)。小林の沈黙が戦争から深い痛手を負っていることを示していると理解したものの、その沈黙にはもの足りなさを感じ、失望の念を抱かざるをえなかった。もはや小林にも求めえない、という失望が広がった。

 敗戦前後の小林から、吉本さんは二つの教訓を得て、以降それを表現者としての自分に課した。ひとつは、知識人、もの書きである以上、情況への発言を怠るべきではないということ。沈黙をひびかせた小林への失望が、吉本さんの原点になる。それゆえ最晩年、歩くことや字を読むのもままならない状態になっても、彼は情況への発言をけっして怠らず、最後までそれを倫理として貫いた。請われれば自らの考えを開示しつ続けた姿勢は、容易にできるものではない。みごとというしかない。
 もうひとつは、小林が戦争を「宿命」と受容した姿勢を乗りこえる道を自力で切り拓くことを課題とした。戦時中、自分としてはよくよくものを考えているつもりだったはずなのに、どこかで間違えてしまった。社会の方からやってくる動きには、とてもたちうちできず振り回された。世界をつかむ方法をまったく手にしていなかった。方法をもたない文学者、知識人たちは何も語ってくれない。自力でそれを生みだすしかない、と。

 戦争を歴史の必然性、「宿命」と受けとめた小林秀雄の限界を超えていくことが、吉本さんの戦後の営為の原点にほかならない。凡百のプロレタリア文学者よりは小林秀雄を断然評価するものの、現実の解析へ向かわなかった点において、小林秀雄は「もっとも貧弱なプロレタリア文学者のひとりにさえ、一歩ゆずらざるをえなかった」といいきる。
 敗戦後の小林に感じたもの足りなさを掘り下げ、厳しい批判を前面にうちだしている。ここで小林と分岐をなし、自立思想の営為を長年続けてきた。戦争、社会、国家、権力……、これらの解明に向かう。この一九六一年の小林秀雄論では、「僕は無智だから反省なぞしない」の言に感心したりすることはまったくなかった。

○「ダメだね」から一転して評価へNorinaga1

 以降も吉本さんは文学的に評価することはあっても、不満を漏らすほうが多かった。現に、七〇年代半ばに小林秀雄が『本居宣長』を発表したとき、批判の口調は六〇年代よりさらに厳しさを増した。小林の大著『本居宣長』にあるのは、「日本の学問、芸術がついにすわりよく落ち着いた果てにいつも陥いるあの普遍的な迷蒙の場所」だった、と。論理を軽蔑したあげくに、「原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路」の陥穽に小林秀雄もまた落ちていった、と。「小林の無意識の織りなす綾のうちに、営々たる、戦後の解放と営みを全否定しようとするモチーフが、あやしい光を曳いてゆくのをどうすることもできない」(「『本居宣長』を読む」一九七八年)。結局『本居宣長』は、戦後の思想的営為を全否定するものにすぎないではないか、と。こうも語っている。「小林秀雄の『本居宣長』をいっしょに読んでいて、つくづく読んでいていやになった、小林秀雄ってのはダメだねっておもいましたね。……。ダメっていうのは、要するに何もないですよね」(「伝統と現代」七八年五月号)。
 ところが晩年になると一転して、重心を移動させる。小林の敗戦後の姿勢をあえてとりあげ、評価するようになる。二〇世紀も末を迎えたころからだ。
 『私の「戦争論」』(一九九九年刊)では、「反省なぞしない」発言を「まっとうだと僕は思いました」ととりあげる。小林が戦前と戦後の姿勢を変えなかったこと、情勢の変化に応じていたずらに態度を変えなかったことを、むしろ改めて感心して強調するようになる。そういい始めるのは、ちょうど現在を「第二の敗戦期」ととらえるのと重なる。

○「第二の敗戦期」とする分析の視線

 第二の敗戦期とし、社会のとらえ直しを彼が迫られていたことをはっきり示すのが、二〇〇八年前後の著述だ。「この四、五年で、日本の「戦後」が終わり、新しく『第二の敗戦期』とも呼ぶべき段階に入ったのではないか」(『貧困と思想』二〇〇八年刊)と。
 なぜ、「第二の敗戦期」なのか。親の子殺し、子の親殺しなど、近親間の殺人や、「相談自殺」(集団自殺)などが目立つようになった。『蟹工船』がベストセラーになったように、新しい貧困が生まれ格差が拡大している。さらにはマルクスとエンゲルスの時代(産業革命期)の肺病に代わって、現代の「第二次産業革命」では「精神病」が蔓延してきたことも挙げる(同前)。底のほうで地殻変動が起きている過渡期にある、ととらえる。

 わたしが着目し極めて重要と思うのは、「第二の敗戦期」を分析するときの視線だ。コミュニケーション装置の急激な発達を挙げたあと、「東洋の美風とされてきた家族的、親族的な一体性がどんどん壊れていく」(同前)事態を指摘している。あるいは「ゆったりした農本的な生活の感覚は違和にさらされている」(『「情況への発言」全集成3』)と。
 「東洋の美風」「ゆったりした農本的な生活の感覚」という表現と、それらが解体されつつある事態に慨嘆を漏らしている。驚くべきことだ。なぜならこうした見方は、彼が八〇、九〇年代に、倫理的反動、停滞と罵倒してきたものと近似しているからだ。吉本さんが高度資本主義を「最高の達成」と評価し、さらに考察の歩を前に進めるときに、倫理主義の反動としてことごとく蹴散らしてきた言とほとんど重なってしまう。

○「アジア的」の両義性

 とくに、二〇〇八年刊の『「情況への発言」全集成』の「2」と「3」に付けられた「新書版のためのあとがき」は、彼の思想史をとらえなおすとき、たいへん重要な位置を占めている。心身の力はかなり衰えているはずの彼が、一部文意を読みとりにくいところもあるものの、振り絞るようにして紡ぎ出した言葉が綴られている。晩期の著述のほとんどは、語りを編集者がまとめたものだが、自ら執筆したと思わせる密度を感じさせる。優れた編集者の支えにも依っているのだろうが、晩年期の、核心を衝いた「情況への発言」である。

 数年前から日本が第二の敗戦期に入ったとし、次のように分析している。「これは如何なる徴候とみなすべきか。わたしはさしあたり、日本国のアジア的な固有値が急速にインド・ヨーロッパ型の人間関係の接触距離感に接近しつつあることを意味すると見做してきた。その変化も生活意識と産業の同一性さえあればよかったが、ゆったりした農本的な生活の感覚は違和にさらされている。世知辛さやこまやかな人間距離も産業の構造変化のはざまに追い込まれたが、どこへ脱けだせればいいのか判らない。日本国はそこに落ち込みつつある過渡的状態だと言える」(『「情況への発言」全集成3』)。

 八〇年代前半「試行」で「アジア的ということ」を七回にわたり連載したように、彼は「アジア的」にこだわり、これを両義的にとらえてきた。アジアでは農耕共同体のまま二千年以上のときが経過し、第二次産業の発展や歴史の進歩から外れていた、つまり停滞の地域だった。しかし、村落共同体の相互扶助や親和的人間関係が維持されてきたとも評価する。その論考は、近代的進歩史観にとらわれたレーニンを批判し、「アジア的」の両義性をしっかりとらえるマルクスを評価するかたちで展開された。
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[2013年「流砂」6号に掲載]

※吉本隆明さんをめぐっては、拙著『村上春樹と小阪修平の1968年』(2009年刊)内のⅡ部内「マルクスと吉本隆明の先へ」、及び『吉本隆明と「二つの敗戦」』(2013年刊)で論じている。

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