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2015年12月31日 (木)

鈴木孝夫と三木成夫

~西欧知の黄昏にて 動物的原理・植物的原理~

 「ミネルヴァのふくろうは、黄昏がやってくると初めて飛びたつ」と書いたのはドイツの哲学者ヘーゲルだ。「ミネルヴァのふくろう」とは哲学、知を指す。哲学が現実の社会をしっかりとらえられるのは、社会が成熟し仕上げられたとき、つまり黄昏がやってきたときである。飛びたつふくろうは、新しい時代の姿も自ずから告げるはずだ。
 ヘーゲルがこう書いてから二百年近く経つ。いま西欧(欧米)的近現代は明らかに黄昏を迎えている。しかし、ミネルヴァのふくろうが西欧の地から飛びたっているようにはみえない。羽音は極東の島から聞こえてくる。

〇「欧米が普遍」信仰を棄てる

 鈴木孝夫さんは、一貫して「西欧絶対主義」、「欧米中心主義的な考え方」を批判してきた。これまでわたしたちが目にするそうした批判の多くは、欧米へのコンプレックスの裏返しとしてあった。しかし鈴木さんのそれは従来のものとは異なる。言語社会学、海外留学、長年にわたる文化交流を通じて、「バスト型外国観」をうち破り「下半身」も含め西欧的原理を冷静に相対化し、さらに二〇世紀社会の爛熟と危機を踏まえたものであるからだ。

Suzuki1 鈴木さんは語る、そもそも西欧文明とは普遍でもなんでもない「ある時期のある地域の特殊現象だ」と。「ヨーロッパが普遍に一番近くて、ヨーロッパ的になることが普遍への早道だと言うそれまでの考えをまず壊」さねばならないと(『私の言語学』)。言語学のみならず、すべての分野の学にそれはいえることだ。

 では「西欧絶対主義」「欧米中心主義的な考え方」とはどんなものか。「人間中心的な動物観」であり、「自他の対立を基礎とする」ものだ。
 人間中心とは、人間を最上位に置き、その下に家畜、野獣、下等動物と順に並べ、断絶した上下階層で生物をとらえるものだ。古代ギリシャ、キリスト教の流れを受けた人間観、自然観であり、自然(人間以外のもの)は制圧し支配する対象でしかない。
 それは他者との関係にも投影される。西欧文明は「強烈な自己主張と異質な他者への容赦ない排除を文化原理とする」(『日本人はなぜ日本を愛せないのか』)。自分が世界の中心に立つとする文化だ。

 その背景を、鈴木さんはたとえば食料源の面から探り、ユーラシア大陸と日本とを対比させている。ユーラシア大陸文明は「家畜+穀物(主として小麦)複合体」が生活基盤となっている。これにたいして日本は「魚介+穀物(米と雑穀)複合体」である。そして「動物性食料源が家畜か魚介か」の相違が世界観を分けてきたというのだ。家畜は意のままに統御できる。それが動物のみならず人間をも支配の対象とするときの意思の強さを生む。支配と被支配の明確な区別、対立や断絶をもたらすことになる。ところが、魚介は人間が支配したり命令できる対象ではない。したがって人間以外の生き物とも共存しなければならない、あるいは他の生き物に生かされているという意識が生まれる。他者との関係でも、相手との摩擦、対立を嫌い、譲りあい支えあう。
 このような対比を、鈴木さんは攻撃的な「動物的原理」と穏やかな「植物的原理」と表している。あるいは「断絶の思想」と「連続の思想」、「ヤドカリ文化」と「サンゴ礁文化」と対比させている。そして今日世界の主導権を握っているのが「動物的原理」であることに警鐘を鳴らす。

〇人間中心主義による「文明の勝利」の黄昏

 じつはこのような「動物的原理」と「植物的原理」の対比を、生命形態学の立場から同様に問いかけて欧米的文明観を批判する人がいた。三木成夫さん(一九二五~八七年)だ。Keitaigaku

 三木さんは動物と植物の特徴を対比させる。植物は合成能力をもち、いながらにして自らを養うことができる。一方動物はいながらにして自らの体を養うことができないから、餌を求めて動かなくてはならない。植物は大自然のなかで根を張り、稔り豊かな一生を送る。動物のほうは、目先の餌を捕獲すべく動き回る。生物本来の栄養―生殖の営みを、植物は「自然と協力しながら」、動物は「自然とたたかいながら」行う。

 ところで、動物(人間)の体は、植物と動物のこの特性をそれぞれもつ器官群(植物性器官と動物性器官)で構成されている。植物性器官とは、栄養―生殖(吸収、循環、排出)をつかさどる内臓、血管などである(内臓系)。その中枢は「心臓」になる。一方、動物性器官とは、感覚―運動(受容、伝達、実施)をつかさどる骨格や筋肉、神経などである(体壁系)。その中枢は「脳」になる。

 三木さんは、生本来の営みをつかさどるのは植物性器官(内臓系)であり、それを目標まで持ち運ぶ四輪駆動車が動物性器官(体壁系)だと喩えている(『胎児の世界』)。あるいは、「動物とは、胃袋と生殖器に目と手足がついたもの」と喩える(『ヒトのからだ――生物史的考察』)。
 そして、動物のなかでも脊椎動物になると、動物性器官の筋肉や神経が植物性器官へしだいに張りだしてきて、植物性器官が外部の動きに敏感に反応するようになる。また、動物性器官は著しい分化を遂げ、なかでも神経系、とくに脳が発達する。その頂点に達したのが人間である。人間では、まわりを筋肉にとり囲まれた植物性器官(内臓、心臓)は外界の影響を受けて、「心情」が発達する。食と性という基本以外のできごとにも、心を揺さぶられるようになる。人間の心は、「動物性器官の構成要素である筋肉や神経が、植物性器官へ強く介入するところから、しだいにめざめていった」ものだ。
 他方、発達した脳には「精神作用」が働くようになる。自我の意識を生みだす。「心情」は植物的な営みを、「精神作用」は動物的な営みを表出したものにほかならない。さらに動物性器官が発達し強くなると、生の中心が心臓から脳へ移行する。動物性器官が植物性器官を強く支配するようになり、精神が心情を抑えこむ。

 このような人間の「自我」の行きつく先について、三木さんは次のように書いている。「人々は、その欲望にしたがって、しだいに自然のいちいちを評価するようになり、これをもとに自然を利用し、そして改造し、ついにはこの破壊を人類文明の勝利と結びつけてはばかるところがない」((『ヒトのからだ――生物史的考察』)。頭と心臓のバランスが壊れ、頭があまりに支配的になってしまった。その根底に、「ユダヤ・キリスト教の人類至上主義(ヒューマニズム)に象徴される、あの根強い人間精神の存在」を三木さんはみている。

 こうしてそれぞれの専門学を超えた鈴木さんと三木さんの論は、西欧文明批判として深く共鳴しあっている。動物的原理と植物的原理という象徴的対比から、期せずして西欧的世界観に異を唱えている。二人が現実に相まみえた形跡はないが、一九二五年(三木さん)、二六年(鈴木さん)と生年が大正末でほとんど同じというのは興味深く、ここに二三年生の谷川雁、二四年生の吉本隆明も加え、知の巨星について考えてみたい誘惑に駆られるが、それは本稿のテーマから外れるので控えよう。

〇「自由な人格」が際限なき経済拡張を強いる

 二人が批判した、動物的原理を核としてきた西欧の文明は、その哲学によく示されている。じつは西欧知が基本に据える「自由な人格」の確立こそ、「あくなき経済拡張」を強いているといわざるをえない。そこでは、世界を認識する主観を確立し(カント)、世界を概念把握し(ヘーゲル)、「地球全体の支配者、主人」になる(アレント)のが、人間の「自由」の姿とされる。自然性を振り払い、あるいは制圧し、自我を確立し、世界を支配するところに人格の自律、自由がある。「道徳」や「人倫(倫理)」を生み出すこの「自由な人格」論は一見まっとうにみえるし、近代を推進する力になった。だがこの思想は、その原理からしてあくなき経済拡張を要求しているのだ。二点、みてみよう。

 人格、精神は「野蛮、粗野」な自然を支配し、克服し、制圧することで「自由」を獲得できる。食うためにあくせく(労働)していては、自由になれない。衣食住のごたごたにできるだけとらわれない(あるいは他人・奴隷にそれを押しつける)先に自由が得られる。奴隷制が許されないなら、生産力、生産性を向上させることは至上命題となり、限りがない。資本制を厳しく批判したマルクスも、この論から自由ではなかった。
 だが人間は自然的存在であり、それを超克できはしない。仮にどんなに貨幣や食料を溜めこもうが、日々自然的存在としての自己と向きあわなくてはならない。むしろ自然と寄り添うなかに自由を見いだすしかないのだ。全き自由など存在しない。

 もうひとつは、ヘーゲルに象徴されるように、市民社会における「自由な人格」の確保の仕方だ。ヘーゲルによれば、人格は自らの身体を「所有」し、身体を精神化(精神による統御)することから始まり、周囲の「物件」(もの、自然)を「占有取得」することで、自由を拡充することができる。物件を所有する権利をもち、物件を他者と交換しあうことで、お互いの人格を承認しあう。分業が進むと、自分の欲求を実現するには、他者(のつくったもの)に依存しなければならない。物件の所有権を認めあい、商品を交換し互いに依存しあうなかで、市民社会における人格の権利と自由が保障される。つまり市民社会での「自由」は、所有権主張と拡大、交換で確立される。

 ところで、資本制社会では交換(売買)は、できるだけ安く買い、できるだけ高く売るのが原理である。利潤、資本を増殖させなければならない。当然、たえざる自然制圧、モノの所有拡大、たえざる売買(安く買って高く売ること)こそ、「自由」を充足させてくれる条件になる。所有と売買の欲求はとどまることなく拡大していく。こうして、「人格の自由」追求は「あくなき経済拡張」に帰結する。

 だが、こうして獲得される「自由」を、今日わたしたちは自由と賞揚できるのだろうか。これは「恣意」と呼ぶほうがふさわしいのではないか。もちろん恣意も大切だ。身分が固定され、気ままに振る舞えなかった封建制からの解放を、近代が「自由」と呼んだのはわかる。たしかに産業革命勃興期の時代状況をみれば、生産力発展論や市民社会論は時代にとってリアルな思想だったといえる。ヘーゲルもマルクスも「時代の息子」だった。しかし近代のこうした知の枠組みは、カント、ヘーゲル、マルクス以降の、マルクス主義も、ポストモダンも、そして「正義論」論議で賑やかなリバタリアニズムやコミュニタリアニズムに至る今日まで、変わることはない。それは極東の島の学をも覆い、わたし(たち)自身、それにとらわれてきた。

〇「戦線縮小」の道

 こうした事態を鈴木さんは厳しく批判する。「そこで分かった重要なことの一つは、『個人がいかなる考えを持とうとも、どんな生き方を望もうとも、すべてが許され誰もが楽しく生きていけるような社会が理想だ』とする進歩思想、つまり無制限な個人の自由と欲望の解放をよしとする考えは理論的に成立しえない、したがって実現不可能な空想であり、それは長期的に見た人類の存続自体をも危険な状態に陥れかねない間違ったものだということです」(『私は、こう考えるのだが。』)。

 一方、三木さんも深刻な懸念を示している、「……、ここで特に注意しなければならないことは、宗族発生(系統発生)的にも、個体発生的にも、おくれて現れた〝精神〟の世界が、いわば先輩格にあたる〝心情〟の世界を、ついには、とり返しのつかぬまでに侵略しつくそうとしていることである。この侵略行為は、われわれの好むと好まざるとにかかわらず、無意識のうちに行われていることであって、それは、すべてをのみつくす奔流を思わせるものがある」と(『ヒトのからだ――生物史的考察』)。

 ではどうすればよいのか。鈴木さんは「山登りで言えば人類は既に繁栄の頂上を極めてしまった以上、あとは降りるしか残された道はない」(『私は、こう考えるのだが。』)とし、「戦線縮小」を提唱する。
 これは、近現代とその基本動因の変換を根底から問うものにならざるをえない。あくなき生産力の発展こそ自由と幸福を確保する、という西欧知の自由(恣意)論、進歩論を超えるしかない。このときわたしが模索するのは、人間の欲求を否定する「道徳主義」に依拠するのでもなく、現在の経済システムに無批判に依拠するのでもなく、社会関係の組み替えを追求することだ。生産・消費・排出の過程と関係を組み替えていくこと。より多くモノを所有することや、交換(安く買い高く売ること)で貨幣・資本を殖やす欲求・欲望から、協働・協同の生産・消費(広く諸活動)による「交歓」へ。自然性を排除・制圧する人格の自由から、自然と寄り添う自由へ。知(自我)の絶対化に価値を見いだすことから、人格や知を相対化(ときには無化)することに価値を見いだすことへ。

 たしかに西欧的知から吸収すべきことはまだ多い。反省的運動も盛んに起こっている、食文化の多様性を尊重しようと、スローフード運動が北イタリアから始まったように。だが、西欧知の基本枠組みの時代的限界はもはや明らかだ。ミネルヴァのふくろうではなく、極東の島から知恵の鳥が飛びたち始める。

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 (2011年刊 鈴木孝夫研究会編『鈴木孝夫の世界 第2集』に寄稿)

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