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2016年1月16日 (土)

内田聖子『森崎和江』

 森崎和江という名は、谷川雁とともに語られることが多い。
 私もそうだった。だから、しっかり読んだ彼女の著書は、一九七〇年に刊行された『闘いとエロス』くらい。それは、谷川雁と森崎和江が関わった筑豊のサークル村運動、大正炭鉱での争闘現場を主舞台にしたものだった。
 内田聖子さんの手になる今回の評伝で、森崎和江さんの生い立ち、背負ってきたものの重さと背景を初めて知ることができた。

Morisaki1 本書は、森崎自身の著書や、参考となる書物・資料、さらに著者内田さんが独自に取材して得たさまざまな情報も交えてまとめたもので、森崎和江という存在の豊穣と輝きを読者に提示する。それを可能にしたのは、内田さんの女性らしい味わいと香りをもつ文体ゆえだろう。その捌き方は森崎和江を敬愛する想いで支えられているものの、社会情勢の把握も含め、冷静な目を失ってはいない。
 編集者にも恵まれたのだろう、内田聖子さんの代表作と位置づけられそうだ。いかにも菊池信義さんらしい装丁も好ましい。

 森崎和江が、当時併合していた朝鮮(現・韓国)で生まれたのは昭和二(一九二七)年。高校教員の父が同地に赴任していたためだ。
 家には朝鮮人のお手伝いの娘さんがいた。「毎日ぬくぬくと豊かさを享受して育っている自分が、彼女らを支配している日本人のひとりであること」を認識したのは、九歳ごろのこと。「朝鮮で生まれ育った内地知らずの内地人」として居心地が悪く、自分自身のアイデンティティをつかみがたくなる。さらに、創氏改名や朝鮮語の禁止など日本側がとる支配の圧政と、それに反発する朝鮮人との間で、子ども心に葛藤が膨らみ、それが原罪意識のように締めつけてくる。
 著者は併合した朝鮮での生活での細やかな心の動きまで探り、森崎の「植民地二世」としての負いと、そこから自己を問い直す作業を生涯強いられたことを、読者に伝える。
 そして、谷川雁との出会いと決別、さらに以降の表現活動と、森崎の辿った軌跡を丁寧に描いている。

〇産むこと 生まれること

 自分の関心に惹きつけて、二、三を記してみる。
 本書では「産む」ということについて触れられている。「死は思想や哲学や宗教の対象となるのに、産むことは思索の対象として発展してこなかった」と指摘する。「女たちの孤独」が森崎のテーマのひとつであり、著者はこれに共感を寄せる。

 以前、私は『吉本隆明と「二つの敗戦」』(二〇一三年刊)で、こう書いたことがある。
「ところで、少し横道に逸れるが、ハイデガーは、『死』とともにしか存在しえない人間(現存在)のありようを深く掘りさげた。しかし、死の発端、死を死として生起させる前提となる『誕生』については、なぜかほとんど触れることがなかった。それは西欧的知の守備範囲から外れるからではないだろうか」と。
 西欧形而上学を批判したハイデガーですら、生誕のほうに目が行き届いたとはいいがたい。それは西欧に限らず今日の「男的」思考が欠落させているところでもある。

 「産む」こと。「生まれる」こと。そして著者が「台所は戦場でいうところの本丸であろう」と見抜いた核心にある「食べる」こと。いのちの誕生と、いのちをつなぐこと――こうしたいのちの基礎的な営みは(西欧的)近代があえて無視したり、単なる手段として軽んじてきたことだ。けれども、これを包みこむ、あるいは包もうと努める思想こそ、今日切に求められている。いいかえれば、「いま、生きてある」を問う存在観(存在論)の出現だ。

〇サルトル、ボーヴォワールと

 一九六六年、ボーヴォワールとサルトルが来日した。当時西欧的知の最先端に位置する知識人であり、かつ「契約結婚」という新しいスタイルがもてやはされた二人だけに、マスコミは来日を大きくとりあげた。
 二人は、翻訳家朝吹登水子を通じて森崎と会うことを求めた。彼らが会ったときの様子、会話を、内田さんはいくつかの資料をもとに再現しているが、どうも両者の会話が噛みあったとはいいがたい。

 ボーヴォワールは平等と自由の権利確立を通じての女性の自立を追求する。それは西欧近代的主体(主観)の確立を、遅れた東洋・日本に啓蒙するものだった。
 後年、ボーヴォワールはこう語った、と本書で紹介されている。
「わたしの知っている親子関係ときたら凄まじいですよ。私はその逆で、そんな関係を持たずに済んで本当にありがたいわ」。
 結婚という制度に依る・依らないも個の判断だし、子を産む・産まないも個あるいは対の判断であったり、可能性の有無や偶然であったりする。是非が論じられることではないはずだ。
 ただ、「凄まじい」とされる親子の「関係を持たずに済んで本当にありがたいわ」というとき、自然過程としての「産む」(生まれる)ことの深さ、重さ(それは存在することの深さであり、重さである)について考えることが捨象されてしまう。

 相方サルトルの「実存主義」も同様の問題を抱えている。主体性、主体の「投企」、「自由」……すべての基礎は近代的主観を前提とする世界観に基づいていた、たとえサルトル自身が乗り越えたつもりでいたとしても。
 たしかに、権利の確立と自由を謳う西欧近代的主張は、いまでも切実さを失ってはいないところもある。けれども、西欧的近代思考や啓蒙の限界が露呈しつつある。
 森崎はそれとは異なる次元で苦闘していた。

 一時彼女のパートナーであり、彼女が大きな影響を受けた谷川雁も、本書の中でそれなりの位置を占めている。
 著者はすでに『谷川雁のめがね』を著しているが、谷川が牽引したラボの活動でチューターとして自ら関わり、まぶしく見上げながら谷川と接触した体験があるだけに、森崎の谷川へのアンヴィヴァレントな想いもうまく表現されている。
 谷川雁の具体的な言葉はもう挙げないけれど、彼は共同的世界と対的世界の次元の違いをうまく切り分けられなかった。それはつねに私たちの課題でありつづける。そう、改めて思い知らさせる。

 本書を通じてみえてくる森崎さんが抱えたテーマは、決して古びていないばかりか、今いよいよ重みを増すことを教えられた。

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