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2016年6月

2016年6月12日 (日)

『京都ぎらい』の屈折

〇洛中の杉本家Kyoutogirai_2

 「京都人」でありながら、「洛西」(洛外)に生まれ育ったゆえに、「洛中」に抱く屈折する心情を吐露した書。それが「京都ぎらい」のみならず、「京都ずき」をも引き寄せるようで、「2016新書大賞」に選ばれている。
 もう一年近く前に刊行された『京都ぎらい』だが、最近手にとってみた。素朴な「京都ずき」の私にも、著者の屈折した心模様はそれなりにわかる。

 著者が「京都ぎらい」になるきっかけの舞台は、洛中の綾小路新町に構える京町家(屋)である杉本家。
 知られるように、杉本家は奈良屋の屋号で寛保年間に創業した京呉服の商家で、建物の規模は洛中最大級といわれている。代表的な京町家であり、私も十年以上前に、取材でお邪魔をさせていただいた。また、祇園祭の折に寄らせていただいたこともあった。
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 その頃、九代目当主を務めていた杉本秀太郎氏はフランス文学者で、国際日本文化研究センター教授などを歴任、エッセイも残している(昨年逝去)。
 取材のとき、応対してくださったのは、奥様だった。にこやかに、そしてとても丁寧にお話してくださったことは、今も忘れられない。「日本のお母さん」という雰囲気を醸す方が京にも住んでいるのだ、とうれしくもあった。

〇「肥をくみにきてくれたんや」

 さて、京都人でありながら「京都ぎらい」を自認すP1010086る著者井上章一さんは、この杉本家に一九七七年、町家調査のため訪れた。そのとき、初対面だったご主人の杉本秀太郎さんが、「君、どこの子や」と尋ねる。「嵯峨からきました」と答えると、杉本氏は、なつかしいと言い、「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」と告げたという。
 これを井上さんは、「いちおう感謝の気持ちもこめたかったように、くみたてられている」が、そこに「揶揄的なふくみのあることは、いやおうなく聞きとれた」と振り返る。「私は田舎者よばわりをされたのだ」と。「洛中」の杉本さんから、嵯峨という「洛外」育ちを侮蔑されたのだと。
 これをきっかけに井上さんは、「洛中であじわった屈辱の数々」を書き連ねていく。それが本編をなす。

 今は亡き杉本秀太郎氏のものいいが、著者井上さんが嗅ぎとったように、侮蔑的なものだったのかどうかは、なんともいえない。ただ、井上さんはそう受けとめた。
 杉本氏がどんなニュアンスを込めていたかどうかは別として、洛中と洛外という「関係の絶対性」が、杉本さんと井上さんにそういう意識を自ずと醸成させてしまったのだろう、とはいえる。

 杉本秀太郎さんは、助教授として国際日本文化センターに入り、のちに教授に就任。井上さんも同じ日文研に在籍している。二人が初めて会ったのは、肥汲み発言事件のときだが、のちに同じ職場で顔を合わせていたことになる。きっとそこでもさまざまなやりとりもあったろうから、仕事ぶりや研究ぶりをつぶさに見て、杉本さんが「しっかりせいや」と思っていたのかもしれない。そんな心的なやりとりが、かつての肥汲み発言事件の陰影を井上さんの心のなかに深めさせた可能性も否定できない。杉本秀太郎さんがなくなられたのは昨年の五月。『京都ぎらい』の本が出たのは、その数ヵ月後のこと。封印が解かれたかのように出版されている。

〇京女のプライド

 ただ、どうあれ井上さんが、杉本さんから、そして洛中人から蔑まされと「感じた」ことは間違いないし、杉本秀太郎さんがどうかは別に、洛中の人にそのような意識が存在することはたしかなことだ。

 井上さんは、洛中(人)と洛外(人)の意識の差、差別・被差別的構造を明らかにする。洛中という狭いエリアだけでなく、京都人の「中華思想」は、昔からしばしば指摘されたきたことだ。本書にもあるように、京都以外の関西人はとくにそれを感じていた。だから、本書を読んで溜飲を下げることになる。

 そして、京都の中華思想は男だけの専有物ではない。以前仕事をお願いしたことのある作家さんのお話を引かせていただこう。関東で育ち、東京の大学を出たその方は、京都で大学院時代を過ごしている。そのとき、生粋の京女とおつきあいをしていたそうで、相手の京女から受けた説教言葉を記している。
 「あんたなあ、東夷(あずまえびす)に京女が玉の肌を許すなんて、昔ならありえないこっちゃで。最高の屈辱やで。わかっとるか。コレ、聞いとるか? ありがたく思わんとイカンよ」。ありそうな話で、シーンが浮かんでくる。

 「そんなのあたりまえやんか!」。
 祇園で酒を飲んでいたとき、この話を紹介したところ、京女の心情に共感し、かつ東夷に対して少しばかりいらちの表情をみせて憮然とこう答えたのは、根っからの京都人・京キース氏だった。
 氏は、京に中華思想があることを素直に認めていた。「東京人は、おれは江戸っ子というかもしらんけど、たかが江戸時代から。京都は江戸の前からずっと都や」。

〇さらなる恨み

 京には数年間住んだが、私のような、京都への「お上りさん」には、当然井上さんが抱えこんだような屈折はまったくありえない。もともとが、京都の外、東夷の野郎にすぎないからだ。京都の人はよそさんには意地悪いと言われるが、差別されたり、蔑視されたりしたことと感じたこともない。むろん、自分の鈍感によるところも多少あったに違いないが。
 だから、洛中の人が洛外の人を侮蔑しても、「そんなの気にせんといたら」と言ってみたくなる気持を抑えがたい。しかし、京都人と思っていたのに、その内部で排除され、侮蔑を感じれば、著者が感じた屈辱も払拭しがたいのだろうと頷ける。

 そして井上さんがさらにいまいましく感じるのは、差別されてきた自分もまた、嵯峨よりさらに外縁に位置する亀岡や城陽を低く見てしまっていることだという。差別される自分が、さらなる外側に向かって差別者となる。これで一層深い屈折を抱えこんでしまった。「いつの間にか、京都人たちの中華思想に、汚染されてしまった」と。「自分をみょうな差別者にしてしまったのは、京都人である」と、洛中の人間をますます恨むことになる。

〇弁証法的「解決」の道

 このように「外」が「中」に抱く屈折を解決する道がないわけではない。野暮P1010044な哲学話に堕すけれど、話をそちらへ移してみる。
 ヘーゲルの「主人と奴隷」論をもちだすまでもなく、「主人」は「奴隷」なくして主人ではない。奴隷も主人なくして奴隷ではない。これは好ましい喩えではないかもしれないが、すべて同じことだ。
 「洛中」もまた、「洛外」なくして自己(洛中)たりえない。もう少し強くいえば、主人は奴隷において主人であるように、「洛中」は「洛外」において「洛中」である。
 だから、「洛中」なんて「洛外」が存在しなければありえない。つまり「外」が存在しなければ「中」なんてない。「中」という概念は、「外」という概念において、自分であること(自己主張)できる。外なくして中たりえない。繰り返せば「外」に依拠して初めて「中」として存立しうる。
 それだけでしかないんだぞ、と言い切って、おしまいにできる。でも、「京都人」と自己認識していた人ゆえに、そうは割り切れない。その心情はわからなくもないけれど……。

 肥を汲み取りに来る「外」(嵯峨)の人に、「中」の人は助けられている。「洛中」も「洛外」に依存している。
 それは何についても同じだ。「都会」もまた、「田舎」に依存している。田舎がなければ都会たりえない。概念としてありえないし、なにより営みとしてもありえない。「洛中」と騒いだとて、「洛外」なくして「洛中」ではありえない。
 だから、「京」、もっと狭めて「洛中」とは、自らの純粋性を絶対視すれば、フィクションにすぎない。そんなことは、私のような単純な「京都ずき」でもわかっていることで、それをお互いにあえて言い募る野暮には陥らないようにしてきたことだ。ところが、「京」の内側同士では、それが結構露わに吹き出してしまうということなのだろう。

〇洛外に支えられた洛中

 視点を拡大してみる。京という町もまた、京都外の(あるいは海外の)観光客、旅人(つまり「お上りさん」)に依存している。京都人の生活にとって、ぞろぞろと集まる観光客は迷惑なものだが、その旅人、お上りさんによって京都の町も支えられている。
 京都に数年間仮住まいしていた私の部屋は、鞍馬口通に面していた(「鞍馬口通」と聞くと、人はあのDscn25221_2鞍馬寺、そしてそこへ至る道と想像し、ずいぶん北を想像される方が多い。しかし地下鉄烏丸線の「鞍馬口」駅は、「今出川」のひとつ北の駅。概ね「洛外」とされるが、「外」と「中」の線上とみる説もある)。
 その住まいのそばに、上御霊神社があった。応仁の乱、発祥の地である。そこでひと休みしていたとき、団体さんが続々と絶えることなく詰めかけてきた。そうなると、自分が京都人になったつもりになって、「外部」から訪れる人の団体行動にいささか困惑した。そういうシーンは仮住まい時代、さまざまなところで体験したから、京都人の心情もよくわかる。
 それでも、外部の人々によって、京は支えられている。

 そもそも杉本秀太郎さんの奥様は、伏見の造り酒屋から嫁いでいらした。ご主人は学問・文芸の世界に没入されていたから、家を守るのは文字通り、奥様の手にかかっていた。井上さんの視点に立てば、「洛中」の杉本家は、「洛外」(伏見人)の力で存続でき、町家を保存できた。公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会の理事としてご尽力されてきた奥様のお力が大きい。
 「洛中」は「洛外」によって支えられ、洛中たりうる。保存会を支えるのは、洛外のみならず、洛外にも入らない全国の市民によっている。
 そんなふうに割り切れそうにも思うのだが、そうすっきりできないのは、京都人でありながら洛外という微妙な位置に、井上さんが生まれ育ったゆえだろう。

〇産業社会としてみる視線の必要性

 洛中人のプライドは、たとえば「西陣」をも排除する。井上さんは、中京生まれの友人の、次のような言葉を紹介している。「京都を西陣のやつが代表しとるんか。西陣ふぜいのくせに、えらい生意気なんやな」。
 京に住んでいて、先述した京キース氏にいろいろお話をうかがっていたとき、「宇治」や「伏見」はもとより、「西陣」だって、洛中とはいいがたい、と聞いたことがある。
 ただ、京キース氏は、次のように補足することを忘れなかった。京にある二つの集落である西陣村と伏見村は、それぞれ織物産業、酒造業を生業としている、と。つまり、西陣であれ、伏見であれ、それぞれに独自の「産業社会」が形成されていた。当然そこにはその外部からも働き手がやってきて、社会がつくられてきた。
 人はただ生きているわけではない。洛中、洛外にただ存在してるわけではない。働いて生きている。さまざまな産業が併存する中で、人は相互依存的に生きられる。
 西陣では織物、伏見では酒、そして井上さんが生まれ育った嵯峨(洛西)や洛北では農業が営まれ、おいしい野菜もつくられていた。
 伏見はもとより、西陣も、さらには鞍馬口通より北の洛北も、洛中からは一線を引いてみられていたことになるけれど、そこでの生産物に洛中人は依存せざるをえなかった。

 生粋の洛中人というのが存在するのかどうかわからないけれど、もしそういう方がいるとすれば、洛中が洛外に依存し、洛外に負っているという冷厳な事実はきちんと受けとめているはずである。
 ちなみに、杉本家の奈良屋を起こした初代は、伊勢の松阪から「上京」している。だいたいがそんな経緯だろう。
 洛中と洛外で切磋琢磨しあって、もっともっと京のよさを磨いていただきたい。「中華思想はごもっとも」と、「お上りさん」を唸らせていただきたいものだ。「京都ずき」は心からそう願っている。

〇「イノウエショウイチ」という名

 ところで、京に住んでいたとき、京都や関西の人と酒を酌み交わしていると、何度か、「イノウエショウイチ」という名を耳にした。それまでは、失礼ながら不勉強で、井上章一さんのことを知らなかった。
 皆さん、口を揃えてこう語っていた。「かつて京都は誇れる学者、文化人をたくさん輩出してきたが、最近は傑出した人物がみられない。ほんとうなら、イノウエショウイチさんがこれを継ぐべき人物だが、彼は美人論やプロレスの軟らかい方向に流れていて……」
 ただ、こうした苦言を多少は呈しつつも、皆さん、井上さんを嫌ってはいないようで、微笑みを浮かべていた。彼の力を見抜いて、これからを期待している様子なのだった。

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