« 2016年8月 | トップページ | 2017年3月 »

2016年11月

2016年11月11日 (金)

新木正人 『天使の誘惑』

~フーテン美穂、更級日記の少女、黛ジュン、中森明菜、きゃりーぱみゅぱみゅ……たたずむ姿の軋みが呼び起こす倫理を屈折させた存在論的「少女」論~

〇同世代で屹立した特異な表現者

 青春時代に影響を受けた表現者が、私にもそれなりにいる。雑然としているが、文芸思想分野で挙げてみると――。
 中学時代は亀井勝一郎、岡本太郎、ラッセルあたりだったろうか。
 高校に入ると、スタンダール、ルソー、ニーチェ、カントに飛ぶ。
 大学時代になると、大江健三郎、吉本隆明、滝沢克己、ドストエフスキー、ヘーゲル、マルクスやその周辺だった。ただ、それらとはまったく異質の表現者がいた。しかも、同世代の人物だった。いや、同世代だからこそ、強烈に惹きつけられたのかもしれない。
 「新木正人」(一九四六~二〇一六年)。彼の文のほとんどは、小さな雑誌に掲載されたものゆえ、その存在が広く知られることはなかった。

Pb090012_2 初めて、新木さんの文に接したのは、早稲田通りに面した古書店、文献堂でだった。政治党派を離れたり、距離を置いたものたちが集まり刊行された小さな雑誌「遠くまで行くんだ…」に、彼の文は掲載されていた。ミニコミ誌を扱う一部の書店に置かれるだけのマイナーなもので、私の周囲でも、新木さんの表現について熱く語りあえる友人は、ただ一人しかいなかった。
 ときは、一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけてのころ、「どう生きるのか」という問いが、自分と他者に激しく厳しく投げかけられ、矢のように飛び交う時代だった(そこには「近代」をどうとらえ、超えるのか、という課題も含まれていた)。そのなかで新木さんの表現は、同世代人であるにもかかわらず圧倒的に屹立し、読むものの生きる姿勢(新木さん風にいえば「たたずまい」)の核を深く揺さぶるものだった。

 そして一九七〇年代後半以降になると、彼の文は小雑誌の終焉とともに消えていった。

〇初の単行本にして遺作

 Pb090009_2最近は書店にあまり足を運ばなくなってしまった。興味が新刊より古書に移ってしまい、古書店やネットで探すことになる。
 この夏にジュンク堂池袋店へ出かけたのも久しぶりのことだった。四階の棚に面差ししてあった新刊に驚く。カバーには「新木正人」「天使の誘惑」が印字されている。うれしい邂逅だった。
 本書『天使の誘惑』に収められているのは、一九六〇年代末から七〇年代前半に数回刊行された「遠くまで行くんだ…」と、その後継誌「遠い意志」に発表されたものに、「早稲田文学」に発表された一編。そして近年から死の直前までの文が追加されていた。書名は、初期の一編から採ったものだ。

 この本の刊行二ヵ月ほど前の春に、著者が亡くなっていたことを、本書内で初めて知った。準備されていた本書の刊行を待つこPb090016となく、死を迎えたようだ。編者の付記によれば、出棺のとき校正紙が収められた。したがって、新木さんにとって初めての単行本で、かつ遺作ということになる。

 今回、単行本のなかで彼の作品に改めて接し、五〇年近く前に出会った新木さんの表現が私の心身の深いところに染みこんでいたことを再確認しないわけにはいかなかった。

〇新木正人の文体と息遣い

 いったい新木さんの文のどんなところに強く惹かれたのか、整合だてて説明するのはなかなか難しい。
 まず文体であり、その息遣いであり、倫理的な構えにあった。Pb090014
 大衆歌謡(今風にいえばJポップス)分野では、黛ジュンから西田佐知子、小川知子、下って中森明菜、そしてきゃりーぱみゅぱみゅまで引かれている。文芸思想分野では、保田與重郎、伊東静雄、西田幾多郎、内村剛介、桶谷秀昭、磯田光一、吉本隆明らと対峙している。それらを素材、題材にした表現の凝縮と、発想の破天荒な飛躍が妖しい魅力を形成していた。私の受けとめでは、情況における存在の哀傷が呼び起こす倫理を屈折させた歌、ということになる。
 全体が倫理を屈折させた歌ゆえに、断片をとらえて引用するのは躊躇われるのだが、それでも著者への非礼を顧みず、まずいくつかのフレーズを引いてみる。

 はじめに、一九六〇年代末から七〇年代にかけての表現。

 【一九六八年 「更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(一)」】
 情況とは、奈落まで降りていかねばならぬように存在している。そして、日本の近代は、基本的には僕たちによって止揚されねばならない。僕は全力で、日本近代の亀裂に迫っていくだろう。輸入マルクス主義などに足もとをすくわれたりしないつもりだ。

 【一九六九年 「更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(二)」】
 「思想を構築する」という表現にはたえず不潔感がついてまわる。
 この不潔感を撃て。
 この不潔感の根を砕け。
 思想を構築することはできない、と僕は考える。
 思想とは、築くものではなくて、突き抜けるものだ。
 思想者とは、大工ではなくて全力疾走者だ。

 【一九六九年「更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(二)」】
 ふと見れば
  大文字の火ははかなげに
   映りてありき君が瞳に
          (吉井勇)
 祇園花見小路を左に折れた坂道、
 八坂の塔を望むこの坂道に一人佇む美穂の姿を僕等は忘れてはならない。

 【一九七〇年 「黛ジュン」】
 桶谷(秀昭――引用者註)の拒否する陥穽とは何か。三十七にもなって今さら覚悟でもあるまいに、とでも言われそうな部分がなぜオルガスムスに紙一重なのか。「インダストリアル・テクノロジイの発展の展望の下に未来をおもう思想と、人間的自然の変革に未来をおもう発想とは、近代にたいする究極の態度決定において容易に和解しがたい。」とする桶谷が紙一重の差でひきずりこまれることを拒否している陥穽とはいったい何なのか。

 【一九七一年 「天使の誘惑 南下不沈戦艦幻の大和」】
 奈良と京都は違うのです。東山と桜井の匂いは違うのです。桜井の黒髪と春の雨は流れないのです。身を切るようには流れないのです。身を切るような流れが暖かさにすらなってしまったOには桜井の白壁がもう辛いのです。祇園白川から花見小路を下って八坂の塔に抜ける道。それは哀しい道です。桜井を意識しつつ桜井をしらないものの道です。若狭の匂いのする道です。北国若狭の女たちと、判断停止の美学にのめりこむこと叶わぬ東国の男たちの道です。

 【一九七五年 「遠い意志(一)」】
 人間存在にとって屹立とは可能かという問とその問に対する姿勢に関することをいま書いている。私は私にかかわる問題の責任を果たさねばならぬ。自身含めたあらゆる存在に対する礼節を守らねばならぬ。

 【一九七七年 「遠い意志(二)」】
私は「筋」に生きたいのである。「個人的な生き様」などという不潔なセリフを決して吐かず、物心ついた時分に得た己れの問題意識にこの上なく忠実に(もちろんその問題意識が続こうが続くまいが)、あらかじめ(コンピューターでなくワラ半紙と鉛筆で)決定された己れの軌跡に正確に沿って針一本ほども踏外さず、偶然性とかいう味気ないものを一切信用しない、そういう生き方がしたいのである。目はかすんで目やにがこびりつき、歯槽膿漏で歯はガタガタ、弱い呼吸器官に坂道であえぎ、百メートル歩くごとにリポビタンスーパー・エスカップキング・マムシグロン飲み、一時間に一度は出血する疣痔の尻抱えていてもリーゼントでバシッと決める、知人と会ったら太陽のような顔で挨拶する、そして知人が去ったら傍の電柱ででも体を支える、くどいようだが私はそういう生き方がしたいのである。
 
 【一九七七年 「遠い意志(二)」】
能面のように笑うことなき少女が、それでも最後に人知れずほほえみたいと希求しつつ、ついにはほほえむことなく仆れたことを想えば、認識とか能力とか個性とかに生きることは断じて許されぬ。私は認識や能力や個性で思考しない。「筋」で思考する。それも時代情況や内なるアッティラ志向(=自身の心に溺れた反欧米志向)の外内の誘惑を退けた真正「筋」で思考する。

 次に、時を経て、一九九〇年代以降の表現。

 【一九九五年 「中森明菜」】
 時間がないので急いで書く。私にとって問題なのは、中森明菜と、いや宇宙の果てを見抜いてしまった少女たちと、己れがどうかかわるか、ということである。私は少女たちに負けたくないのである。少女たちが瞬時に見せる感覚に負けたくないのである。俺は五十だ、俺は五十だ、と大人の迫力と大人のずるさ、あるいは大人の重厚さで勝つ方法などいくらでもあろう。しかし、それでは勝ったことにならない、と自分は思っている。少女が自意識を軋ませたら、私は少女の二倍、己れの自意識を追いつめ軋ませてやろう。少女が魂を荒野にさらけ出したら、私は、私の肉体をさらけ出し、魂そのものになってやろう。間違っても己れの自意識を住みごこちのよい所には置くまい。

 【一九九五年 「中森明菜」】
中森明菜は老いても、時代は第二、第三の明菜をつくる。そして第二、第三の明菜もいずれ老いる。しかし私は老いることを命がけで拒否する。死に水をとってくれる人間が誰もいなくなっても私は馬鹿馬鹿しい筋目を通したい。棺桶に片足をつっこんでも私はユンケルロイヤルを飲み続ける。ドブ板に頭をつっこんで絶命してもユンケルさえかけてくれたら生き返ってみせる。明菜が、そして少女たちが、魂を切り裂いて呻いた、その呻きを私は決して忘れないだろう。

 【二〇〇七年 「自由意志とは潜在意識の奴隷にすぎないのか」】
 四十年。時間性に実体などないのかもしれないが、ずいぶん時が経ったものだ。宮益坂から紀ノ国屋、表参道から赤坂見附を抜けて阿寒湖に到る白い線。あるいは、柿の木坂から緑が丘、そして洗足池。あるいは、角筈からコーヒー「もん」、そしてヴィレッジゲート、ヴィレッジバンガード。雨の夜あなたは帰る島和彦。雲の流れに西田佐知子、渚ゆうこ京都慕情の時だ。三十年前、『遠い意志』二号に掲載した己れの文章から私は一歩も出ていない。出るつもりもない。認識ではなく、ガタがきた体で、三十年前の己れの文章を追い詰めようと思っている。

 【二〇一三年 「ただの浪漫とただの理性がそこにころがっている」】
 私には、「お金」というものがよくわからない。お金が人間の欲望とこうまで結びついてしまう、ということがよくわからない。お金は普遍的価値があるのだろうが、私にとって千円札はその一枚一枚が違う。百円硬貨もそうだ。一つ一つが違う。何が違うのか。一枚一枚一つ一つのたたずまいが違うのである。たたずまいとは何か。それは息吹だ。それぞれの息遣いだ。

 【二〇一五年 「序」】
中空とは「日本浪漫派」のたたずまいだ。軋んでいるから軋まない、あのたたずまいだ。昔もいまも「日本浪漫派」に惹かれている。惹かれているぶんだけおそらくきちんと批判はできる。戦後初期にきちんとした批判をしたのは丸山眞男であった。そしてそれは外在的な批判であった。対象化した批判であった。ほぼ正確な批判ではあったが根こそぎの批判ではなかった。私は違和を感じた。きちんとした、正確な批判ではすむこととすまないことがあるという違和である。「日本浪漫派」を批判するには、浪漫派の内に徹底的に浸りきり、底にもぐり、身体を回転させ、内から根こそぎにしなければダメなんだと思う。そうでなければ形を大きく変えて拡散するだけだ。

 【二〇一六年 「結」 ※病床での口述筆記】
西洋思想の危機感は、限りなく深い。東洋思想の危機感は、危機を危機として感じられぬが故にもっと深い。思想の優位性の問題ではない。私は相対主義者ではないが、優位性とは不足感ある妙な言葉だ。そこにあるのは、今現在の人類の思想としてのみあらわれる。ぼろぼろになった東洋思想が、一見跳ねている西洋思想を、ある根本的な所で支えている。逆ではない。

Yasakatou 乱暴の誹りを受けること承知で引用してみた。若いときに鮮やかに疾駆していたころから、歳を重ね、五〇になり、六〇になり、そして「大きな病気の、末期」のベッド上で口述したものまで。
 文体は三〇年、四〇年以上経ち変化はみえても、姿勢、たたずまい、息遣いはほとんど変わっていない。希有なことだ。
 懐メロで登場する歌手を、今の私は嫌いではない。「昔の名前」で登場する歌手の唄でも、それなりにしみじみと耳を傾ける。時代の匂いを感じられるから。
 ただ、『天使の誘惑』は懐メロとは異なる。歳を重ね、末期を迎えても、二十歳、青春のそれと対峙し拮抗する表現を貫いた。ベッド上での口述筆記とされる「結」には一部乱れも感じられるけれど、晩年の表現も期待を裏切らないものだ。

〇「少女」 新木さんが行き着いた地点

 いったい、新木さんが抱えていたテーマの柱は何だったのか。黛ジュンや中森明菜を登場させ、保田與重郎や岡倉天心、桶谷秀昭、吉本隆明らと対話して、迫りたかった主題は何だったのか。
 日本浪漫派、ではない。
 たしかに、「昔もいまも『日本浪漫派』に惹かれている」と晩年にも書いているが、日本浪漫派の限界を新木さん自身は他の誰よりも知り尽くしている。
 それでも、「『日本浪漫派』を批判するには、浪漫派の内に徹底的に浸りきり、底にもぐり、……」と書くのは、日本浪漫派(保田與重郎)が存在論的な響きを奏でていたからだ。その存在論的な響きを包摂しなければ、「近代」をあれこれ論じても前へ進むことはできない、という思いだったにちがいない。
 ただ、日本浪漫派が奏でた存在論的な響きとは、日本浪漫派だけのものではない。それは保田が帰ろうとした万葉(以前)からずっと日本列島人の心に流れているものだ。日本浪漫派に限らず、列島の人は存在の哀傷を奏でられる。自らの存在の「負い」を自覚してきたからだ。
 そして、響きを奏でることと、思想として存在論に降りることとは同じではない。日本浪漫派は存在論には降りられなかった。

 なぜ新木さんは「少女」にこだわってきたのか。彼女たちの「在る」が、存在論的な響きをもっとも美しく奏でているからこそだろう。
 そして、日本浪漫派が思想的に降りられなかった存在論的受けとめに、新木さんはしだいにテーマを絞りこんでいった。
 フーテン美穂、更級日記の少女、黛ジュン、中森明菜、きゃりーぱみゅぱみゅ、さらに、自ら教壇に立ち接した定時制高校(「夜の学校」)の女生徒たち……。これらの少女たちを存在論的に受けとめること。
 新木さんが少女たちに観たのは、私のことばで言い換えれば、「在る」(「無い」)の「あわれ」だった。「在る」ことへの驚き、そして「在る」の具体的現れとしての立ち姿の軋み。その情況論的在りようを、彼は自らに鋭く問うた、と私には思える。この問いは転じれば、日本列島が「近代」とどう対するか、「近代」をどう超えるのか、ということとつながる。西洋東洋を貫く近代総体と彼は対峙していた。

P3290283 保田與重郎は米作りの生活を求めたが、戦後世代である新木さんは違う。
 「私だって藤本二三代の『祇園小唄』だけ聴いて育ったわけではない。ジョニー・ソマーズ『ワン・ボーイ』、ブライアン・ハイランド『ビキニスタイルのお嬢さん』に夢中になった」。アメリカンポップスの洗礼も受け、そのリズムを体に刻み、リポビタンスーパー、エスカップキング、マムシグロン、ユンケルといった横文字栄養ドリンクも並べた。
 近代に浸るなかで、近代を突き抜けたかった。

〇貫かれた一九六八年の「宣言」

 最晩年に書かれた二つの文(「序」、「ただの浪漫と理性がそこにころがっている」)には、英語の「be動詞」をめぐる感想が述べられている。「在る」(「存在」)について、思いを巡らせている。
 こう書いている、「意に反して年齢だけは大人になり、視野の狭さが取り柄だった私も、それなりにある程度ものが見えるようになってしまった。自分の中では退歩だが、おかげで『在る』に対する強い敬意を感じるようになった」(「序」)と。

 彼の大きなテーマのひとつは、存在論(存在観)に行き着いた。
 一九六八年「遠くまで行くんだ…」創刊号に刻んだ宣言「僕は全力で、日本近代の亀裂に迫っていくだろう」との近代を問う長年の営為(いや、疾駆)が、そう強いた。存在論に降りることなく、近代を問うことはできない。近代が黄昏れた今日、わたしたちにとって突破口と位置づけられるのは、近代を相対化できる列島の存在観を措いてない。
 一九四〇年前後、「近代の超克」が注目されたとき、日本浪漫派(保田與重郎)は存在論に降りられなかった。ただ、響きを奏でてはいた。他方、「絶対無」「世界史の哲学」を謳う京都学派は、降りたようにみえて、西欧近代の論理に足を掬われてしまった。

〇小阪修平の「瞳」の、そして著者の「心」のたたずまい

 新木さんの表現に信頼を置ける一例を引いてみる。同世代の在野の哲学者小阪修平(一九四七~二〇〇七年)さんを偲ぶ文。
 何度か会った小阪さんに、彼は西洋哲学、現代フランス哲学についてしつこく訊ねたという。そのときの小阪さんについての印象だ。

フーコーのこと、デリダのこと、ドゥルーズのこと、素人相手に彼は長い時間、実に詳しく教えてくれた。とんちんかんな質問にも丁寧に答えてくれた。私にとって楽しい時間であった。
 素人相手にありがとう、と言いたかったのではない。初めて会った小阪二十一歳の春と変わらぬ彼の瞳のたたずまいである。他者との間合いに悩んだことがあるのだろう。他者との間合いに照れたことがあるのだろう。他者そのものに途惑う上質な人懐こさ。いま、小阪修平の、繊細で、人懐こく、どこか苦渋を秘めた瞳を、胸の奥で静かに思い浮かべている。

 名文である。
 このフレーズは、拙著『村上春樹と小阪修平の1968年』の最後にも引用させていただいた。小阪氏の「瞳」をこう描写した著者の「心」のたたずまいこそ、いま改めて味わいたい。

 最後に――。
 「黛ジュン」内で初出には引用されていた磯田光一と桶谷秀昭の対談のかなりの部分が、本書では削除されている。
 引用をしたあと「引用が長くなってしまった」と初出では断っていることばも削除されているので、単なるミスではないのだろう。その前に出た「遠くまで行くんだ…」復刻版では、カットされていない。敗戦と戦後のとらえ方にかかわる磯田・桶谷のやりとりで興味深い部分が消えてしまったことには、首を傾げざるをえないし、もし編集段階で削除したのなら、断り書きを置くべきだったろう。
 しかしそうした点がみられても、新木さんの表現を集め、編集し、単行本として刊行する作業に携わった関係者には、感謝の気持を率直に表したい。読者の心をそう促さずにはおかない書である。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2016年8月 | トップページ | 2017年3月 »