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2017年3月20日 (月)

村上春樹『騎士団長殺し』

 『騎士団長殺し』の絵は、「第一の敗戦」に関わるメタファーだった。
 焼失してしまったもうひとつの絵『白いスバル・フォレスターの男』は、「第二の敗戦」に関わるメタファーとして甦り、人々の心を動かすことができるのだろうか?

  ~第1部 顕れるイデア編―イデア編~ 
  ~第2部 遷ろうメタファー編~

○政治主義的読解やノーベル賞騒ぎから離れて

 二巻で千頁を超える大作でありながら、(たくさんの)読者を引きこむ力をもつ作家はそうはいない。わたしも、ほぼ一気に読んだ。
 ただ、物語の半ば近くから、既視感と呼べばよいのか、以前からの手法がそこかしこに見え、物語の構造も前のものとの重なりを感じ、昂揚感は減じられていった。

 語り始められた物語は結末を迎えなければならない。こうした結末を迎えるほかなかったのだろうが、そう推察しても、半ば肩すかしをくった感は否めない。

 あらかじめ断っておけば、村上さんは、作家として登場し始めた初期から、ある批判に晒されてきた。社会的事件を取りあげない、掘り下げない、社会問題と正面から向きあわず逃げている、と。当初から噴出していた、こうした政治主義的立場からの批判については、わたしは拙著『村上春樹の歌』(一九九〇年刊)以来一貫してこれを反批判し、村上文学を擁護してきた。『村上春樹と小阪修平の1968年』(二〇〇九年刊)でも同じだ。
 『ノルウェイの森』の前までは、彼は時代の熱狂が醒めたあとのニヒリズム的状況下の喪失感覚と、そこで生きるときに求められる綱渡り的な倫理を、巧みに歌いあげていた。

 また近年では、ノーベル文学賞の話題に結びつけて、受賞とならない理由を、社会的問題から逃げている、あるいは積極的な参加をしていないからだ、といった党派主義的な批判もときに目にする。こうしたものいいは、ノーベル文学賞を絶対とする思考と政治主義の、品のよくない結託にすぎない。

 ノーベル賞(文学賞)も、世界政治や社会情勢の力学に規定されているし、そもそも「西欧近代」的な視座からなされたひとつの賞にすぎない。受賞があれば、諸賞のひとつとして「めでたい」と受けとめればよいことだし、受賞の可否で作家、作品の価値が増減するわけでもまったくない。村上さんが受賞していない芥川賞でもなんでも、同じことだ。

 以上のような、文学とは無縁な論議とは離れて、『騎士団長殺し』についての感想を少し――。

○「恩寵」として受けいれること

Kishidan11 物語の主軸は、三〇代半ばの「私」と、三歳年下の妻との関係に置かれている。
 妻から突然捨てられた、肖像画家を生業とする「私」は、傷心のひとり旅で北方面の各地を放浪する。そのあと、友人の紹介で定めた仮寓居で生活を始めると、不可思議なできことに巻きこまれる。家主だった高名な画家が自ら描きながら秘匿していた作品『騎士団長殺し』を、「私」が見つけ、封印を解いたからだ。昔の村上ワールドなら「やれやれ」とセリフを吐くような、さまざまなことが「私」を襲う。

 しかし、「私」はこう受けとめる、現実は「たが」が外れてしまっているが、せめて「私」自身は「たがを外さない」でいたい、と。「たが」が外れた現実に対して、真っ当でありたい、と。

Kishidan12_2 現か夢か定かでない世界に現れた「騎士団長」に促されるようにして、局面の打開へ動きだし、自ら闇に立ち向かう。もちろん闇は自らの内部に巣くうものかもしれない。
 「私」は、一三歳で死んでしまった妹と重なる「秋川まりえ」(絵画教室の教え子)の救出に向かうが、皮肉にも騎士団長の胸に剣を立てることによってしか、局面を打開できない事態に追いこまれる。騎士団長を殺し、恐怖の闇を突き進む悪戦苦闘を経て、「まりえ」救出が実現する。

 そして物語は、別居中に他の男との間に子を宿した(はずの)妻と、生活を再開することを「私」が決断し、結末を迎える。
 苦難に満ちた格闘を経て、「私」は「信じる力」を手にすることができた。父が誰かは確定しなくとも、その子を「恩寵」として受け容れる境地に立つ。語るに値する決意ではある。
 近くに住む白髪の男・免色は、少女秋川まりえが自分の娘ではないかと、血のつながりの有無に拘泥する。それが物語の進行を牽引し、最後に「私」が妻の子を「恩寵」として受けとめる境地に立つことを促すことにもなっている。

○感動が薄れた理由

 妻ユズが身籠もった子を「恩寵」として受けいれる赦しと和解を軽視するつもりはないのだが、なぜこの作品を深い感動をもって受けとめることができないのだろう。

 まず物語の構造や手法が、これまでの作品と代わり映えしない。たとえば、主人公をさまざまな理不尽とも思える事件が襲い、深い痛手を受け、彷徨し、最後には決断し、「暴力」(「剣」)を振るう。構造は『ねじまき鳥クリニクル』(さらに遡れば『ノルウェイの森』)と同じで、「剣」は、同作の「バット」と重なる。

 また、この結末のためにこれだけのボリュームを要するものなのか。逆に言えば、膨大なボリューム、事件の配置を施したのに、辿り着いた結末はこれなのか、という思いを拭えない。
 妻の心が見えにくいことも、読後の感動を薄めている。ふと出て行ってしまった妻が、惹かれた男との間に子を宿した(と思われる)。しかしその男と結婚せず、夫との共生を望むが、その心理がよくみえない。

○「三・一一」をめぐる追記と「プロローグ」

 さらに、肩すかしを食った感を否めない要因をあれこれ探ってみると、作家は「三・一一」の洗礼を受けているのだろうか、という疑問に辿り着く。

 村上さんはエピローグ的な最終章で、「三・一一」について追記的な記述を残している。
 いや、それは「追記」ではなく、「プロローグ」とつなげれば、(これから出るかもしれない)続編(第三部)に引き継がれ展開される導入部の可能性もある。

 けれども、今回の二編からは「三・一一」の影響をうかがいにくい。もちろん、本稿のはじめに断ったように、「三・一一」の事象を直接的にとりあげることの有無を指摘しているのではまったくない。ただ、作品の根底に、二〇一一年のあのできごとの受けとめが流れているようには感じられない。

 翻って、「三・一一」とはいったい何だったのか。
 わたしたちの営みが、自然(存在)の生成に依存しているというシンプルな事実を、あの地震と津波は露わにした。

Naraha さらに、その存在の生成から目をそらせて成立しているもうひとつの問題が露呈した。わたしたちが日々生活を営む場(それはまぎれもなく生成する自然である)の一部に密閉空間をつくり、科学技術の結晶である原子力発電装置を「絶対に制御できる」ものとして稼働させ、かつその生産によって生じる廃物を仮置きのまま、生活を営む場に放置・増大させてきた。いいかえれば、わたしたちの「いのち」がつながる後世代に、その処理を傲慢にも押しつけつつある。

 これは原子力発電所の問題だけでなく、「科学」、さらにいえばわたしたちが積極的に受けいれ推し進めてきた「近代化」が内包する限界でもあり、「近代的主観(西欧的人間主義)」の論理の行きづまりでもあった。

 吉本隆明さんは、自らの決定的な体験として受けとめた太平洋戦争(第二次世界大戦)の結果を日本列島における「第一の敗戦」としたのに対して、二一世紀に入ってからの日本社会を「第二の敗戦期」と受けとめた。さまざまな社会的事象をとらえ、彼はそう評した。
 その象徴こそ「三・一一」における原子力発電所の事故であると、わたしは拙著『吉本隆明と「二つの敗戦」』で書いた。一九四五年の「第一の敗戦」に次ぐ敗戦であり、「第二の敗戦」を決定づけるものだった。それは、近代科学を成立させる「近代的主観」(「人間」)の限界と驕りの果てにもたらされた。

○『白いスバル・フォレスターの男』の肖像画は再び描かれるのか

Kishidan2_2 物語の結末では、主人公が仮住まいしていた高名な画家の家が焼けてしまったと伝えられている。
 その家に残されていた画家の描いた『騎士団長殺し』と、「私」が描いた『白いスバル・フォレスターの男』の、二つの絵も焼失してしまった。
 前者は、アンシュルスに抵抗するウィーンの暗殺計画事件、さらには南京事件をも内包する絵画で、「第一の敗戦」のメタファーとして存在した。
 一方の後者は、「私」が福島の地で出会った「白いスバル・フォレスターの男」を描いた肖像画だった。おそらく「私」はその焼失した未完の肖像画に再度取り組むことになるのだろう。
 はたしてそれは、「第二の敗戦」に関わるメタファーとして甦り、ひとびとの心を動かすことができるようになるのだろうか。

 『1Q84』の作家は「BOOK3」で身を逸らしてしまったようにみえる。本作の続編がもし書かれるなら、その繰り返しにならないことを期待したい。「一九六八年」の空気を同じように吸い、デビュー当初からその作品を追ってきたものとして、切に願う。
 むろんそれは、この作家だけが負う課題ではなく、わたし(たち)が問われるテーマでもある。

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