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2017年5月

2017年5月 1日 (月)

「おかあさんはわたしを生んだの」 サトウハチロー

Satoaiko_2 たまたま佐藤愛子さんの新書『それでもこの世は悪くなかった』を手にした。
 九〇代になっても矍鑠としていらっしゃる。まあ、たいへんなことだ 。

 その中で、弟で詩人のサトウハチロー(一九〇三~一九七三年)に触れている。
 ハチローさんの姿は、わたしもテレビで何度か見たことがあった。頭髪をもしゃもしゃにして、無精髭を生やし、顔もくしゃくしゃにしながら訳の分からないことをしゃべる――子どものころのことなので、そんな印象しか残されていない。

 そのハチローさんについて、愛子さんはこう書いている。
 兄は「とんでもない不良で、本当にどうしようもない男です」、と。なんとなく納得がゆく。「有名な『おかあさんのうた』で善良な人たちを騙しましてね」とまで言い切る。
 「けれども、彼が作った詩の中で一つだけ、ああ、この詩はいいなあと私が思った詩があるんです。不良少年で父や母を苦しめた男の、こういう短い詩です」。
 それが、「おかあさんはわたしを生んだの」という一編。

  おかあさんはわたしを生んだの
  それから
  わたしをそだてたの
  それから
  わたしをたのしみにしてたの
  それから
  わたしのために泣いたの
  それから
  それからあとはいえないの

 いつどこで発表されたのか、まったく知らなかった。いや、接したことがあったのかもしれないが、若いときには気にも留めなかったのかもしれない。

 何度も何度も読み返してみる。たしかに、ことばを削りに削って生まれた佳作だ。

 わたしのことゆえ硬い表現しかできないけれど、情愛に充ちた世界、母という存在の子への情愛の普遍性をごくシンプルに、ゆえに濃密に描いている。
 とともに、母の手を煩わせ、無用な労苦をかけ、悩ませ、泣かせてきてしまった子どもの屈折した心情も滲ませている。母への感謝であり、詫びであり、自分の至らなさ・情けなさを悔いる心情。

 生まれ、育ち、働き、老いて、死ぬという過程で発出される情愛は、「いのち」という自然性に規定されている。
 母と子の関係は、いのちといのちの関係である。いいかえれば、自然と自然の関係である。そこで、こころの価値が交換される。
 「生きて在る」ことは、自然(すべての存在者)との心的価値の交換を必ず伴う。存在の生成消滅に関わる、この本源的な心情交換を、列島で「あはれ」と呼ぶようになった。本居宣長は、さまざまなものに触れて人の情(こころ)が「感(うご)く」ことを、あはれである、とした。

 近代的主観は傲慢にも、この事実を思考領域から追放してしまった。そうしなければ、近代は近代として成り立たなかったのだろう。
 しかし、近代、それを牽引した西欧近代的主観の限界が露わになる今日、この心情を醸し出す存在観にこそ、改めて光が当てられるべきである。

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